両界曼荼羅 (Ryokai-mandala (Mandala of the two Realms))

両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅である。
大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。
個々の「仏」の像を絵画で表わしたもののほか、1つの仏を1文字の梵字(サンスクリットを表記するための文字のひとつ)で象徴的に表わしたものもある。

両界曼荼羅の起源と日本伝来

胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵生曼荼羅)は「大毘盧遮那成仏神変加持経」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経」という密教経典をもとに描かれている。
大日経は7世紀の中頃、インドで成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏(ぜんむい、637年 - 735年)が弟子の一行(いちぎょう、683年 - 727年)とともに8世紀前半の725年(開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。
一方の金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智(671年 - 741年)と弟子の不空(705年 -774年)によって漢訳されている。
なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみである。
この初会のことを「真実摂経」(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。
これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海の師である唐僧・恵果(746年 - 805年)であると推定されている。
恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、唐の絵師に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。
空海は唐での留学を終えて806年(大同 (日本)元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った曼荼羅の原本は失われたが、原本に近いとされる模写が、京都・神護寺所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)である。
なお、神護寺の曼荼羅は着色本ではなく、紫色の綾に金銀泥で描かれている。

胎蔵曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅は、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。

曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。
その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。
大日如来の周囲には4体の如来(宝幢-ほうどう、開敷華王-かいふけおう、阿弥陀如来-むりょうじゅ、天鼓雷音-てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、弥勒菩薩)、計8体が表わされる。

なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった大日経と金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。
また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。

中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。
これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。

図の中央部は大日如来の悟りの世界を表わし、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院, 薩埵院) がある。
蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表わすものとされている。

金剛界曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅の各ブロックを「院」と称したのに対し、金剛界曼荼羅では「会」(え)という語が使われ、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。
これは9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきである。

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。
大日如来の東・南・西・北には阿閦如来(あしゅく)・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来という)。
各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

三昧耶会、微細会、供養会は中央の成身会とほぼ同様の構成をもっており、四印会はそれをやや簡略化したもの、一印会は他の諸仏を省いて大日如来一尊で表わしたものと考えて大過ない。
曼荼羅画面向かって右の理趣会、降三世会、降三世三昧耶会のそれぞれの中尊は大日如来ではなく、理趣会は金剛薩埵、あとの2つは降三世明王が中尊である。
菩薩の一員である金剛薩埵や恐ろしい形相をした降三世明王も、すべては大日如来の悟りが形を変えて現われたものであり、すべては大日如来一尊に由来するということを表現したものと思われる。

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。

[English Translation]