俊じょう (Shunjo)
俊芿(しゅんじょう、仁安 (日本)元年8月10日 (旧暦)(1166年9月6日) - 嘉禄3年3月8日 (旧暦)(1227年4月25日))は、鎌倉時代前期の僧。
出自については不詳である。
肥後国の出身。
字は我禅。
号は不可棄。
勅号は大興正法国師。
1183年(寿永3年)18歳の時に出家剃髪し、翌1184年(元暦元年)大宰府観世音寺で具足戒を受けた。
戒律の重要性を痛感し1199年(正治元年)中国(南宋)に渡った。
径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んだ。
12年後の1211年(建暦元年)日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。
俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。
後鳥羽天皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得た。
そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となった。
以後泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。
書家として
京都に泉涌寺を開いた時に作ったのが泉涌寺勧縁疏であった。
文章も書風もともに優れたものである。
書道史上、宋風の新書風を移植した功は大であり、その書名は宋朝においても高かったといわれる。
泉涌寺勧縁疏の書は、風格、骨法ともに宋代に流行した黄山谷風の行書である。