勤操 (Gonso)
勤操(ごんそう・ごんぞう、天平勝宝6年(754年) - 天長4年5月8日 (旧暦)(827年6月25日))は、奈良時代後期から平安時代前期にかけての三論宗の僧。
俗姓は秦氏。
大和国高市郡の出身。
岩淵上人とも称される。
大安寺で信霊・善議に三論教学を学び、千僧度者に選ばれた。
比叡山根本中堂の落慶供養の際には堂達をつとめた。
796年(延暦15年)同門であった栄好の追善のために高円山(たかまどやま)の麓の岩淵寺で法華八講を創始した。
813年(弘仁4年)大極殿最勝講で法相宗義を論破し律師に任じられた。
弘福寺(川原寺)別当や当時造営中であった西寺の別当を歴任して826年(天長3年)大僧都に至った。
当時の日本では新しい宗義であった最澄の天台宗・空海の真言宗にも理解を示した。
没後に僧正の僧位が追贈されている。