吉田兼好 (YOSHIDA Kenko)

吉田 兼好(よしだ けんこう、弘安6年(1283年) - 観応元年/正平 (日本)5年4月8日 (旧暦)(1350年5月14日)?)は、鎌倉時代から南北朝時代 (日本)の随筆家・和歌。
本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。
兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれる。
中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。
卜部家は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家系であることから吉田兼好と通称されるようになった。
没年には文和元年/正平 (日本)7年(1352年)説もある。

卜部氏は古代より卜占を司り、神祇官を出す神職の家で、兼好の父も吉田神社の神職であった。
後宇多天皇に北面の武士として仕え、従五位下左兵衛佐まで上ったが、上皇の死後、出家して兼好(けんこう)を名乗った。
鎌倉に2回は訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。
その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺内に庵があったと伝えられる。

鎌倉時代から南北朝時代 (日本)にかけて歌人として活躍した。
『徒然草』は自然の風物などが散文として書かれ日本の日本三大一覧に数えられ、また当時の社会風潮などを知るための資料にもなっている。
『続千載和歌集』・『続後拾遺集』等に和歌合計18首が収められており、二条家和歌四天王の一人にも数えられている。

室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。

また晩年は、当時の足利氏の執事、高師直に接近したとされ、『太平記』に、その恋文を代筆したとの記述がある。

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