大谷祖廟 (Otani Sobyo Mausoleum)

大谷祖廟(おおたにそびょう)は、京都府京都市東山区にある、真宗大谷派(東本願寺)の宗祖親鸞の墓。
通称・東大谷。
(同じ京都市東山区内に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が宗祖親鸞の墓所としている大谷本廟(西大谷)があるため)

概要

1272年(文永9年)に東山大谷の地に建立された親鸞の祖廟大谷廟堂(のちの大谷本願寺)に由来する。
1670年(寛文10年)に祖廟を現在地に改葬した。

境内の御廟や真宗大谷派(東本願寺)の門信徒による多くの墓碑が建ち並ぶ東大谷墓地には墓参の信徒が絶えない。

毎年お盆(8月14日~16日)の夜に「東大谷万灯会」(ひがしおおたにまんとうえ)が行われる。

歴史

1272年(文永9年) 親鸞の祖廟、大谷廟堂(のちの本願寺)建立。

(本願寺の歴史の詳細は本願寺の歴史の項目を参照)
1465年(寛正6年) 延暦寺西塔の衆徒らによって大谷本願寺破却される。

破却後は井上願知なる人物によって祖墳が守護され、大谷道場と称した。

1532年(天文 (日本)元年) 山科本願寺破却(天文の錯乱)、大谷道場も破却される。
願知の子孫・祐願によって復興。

1571年(元亀2年) 石山合戦に際し、大谷道場破却される。

1589年(天正17年) 祐願の妻・妙祐と子息・祐誓、大谷道場の復興にあたって豊臣秀吉から地銭免除の朱印状を受ける。

1602年(慶長7年) 本願寺の東西分立に際して、東本願寺第12代教如が東本願寺境内に親鸞及び本願寺歴代の仮墓を建立。

1603年(慶長8年) 知恩院拡張造営に際し、祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞荼毘の延仁寺の旧地と伝えられる鳥部山に代替地を拝領する。

大谷道場の御堂は、知恩院造営に先立って1600年(慶長5年)に教如の命によって祐誓が四条富小路に移し、徳勝寺(現・徳正寺。真宗大谷派寺院)を創建した。

鳥部山の寺地拝領後、善了は大谷道場を改めて勝久寺を創建した。

旧地には知恩院塔頭崇泰院が建立されたが、知恩院作事奉行の一人、勝誉道清によって祖墳遺跡が残されることになった。

1639年(寛永16年) 勝久寺、西本願寺に属する。

その後、勝久寺は西本願寺の親鸞廟所として整備され、大谷本廟(西大谷)となる。

大谷本願寺旧跡由緒の勝久寺が西本願寺の傘下に入ったことにより、東本願寺第14世琢如の代になって、東本願寺では新祖廟造営が求められるようになる。

1670年(寛文10年) 琢如、東本願寺境内の親鸞及び本願寺歴代の仮墓を、教如・宣如の両墓と共に現在地に移し、大谷御坊と称する。

1699年(元禄12年) 東本願寺第15世一如 (僧)、祖廟改築を着工。

翌年に一如入滅によって工事は一時中断するが、1701年(元禄14年)、東本願寺第16世真如は一周忌厳修の後に工事を再開、この年に祖墳の改葬を行われ、本堂が完成。

1703年(元禄16年) 真如、遷仏会を行う。

1709年(宝永6年) 虎石を祖墳上に置く。

1745年(延享2年) 幕府より一万坪の寄付を受ける。

1820年(文政3年) 大谷新道を開く。

1857年(安政4年) 大谷新道南北の畑地を買い取る。
四脚門移建。

名称については、江戸時代は大谷御坊と呼ばれたが、1872年(明治5年)に大谷管刹(かんさつ)、1876年(明治9年)に大谷別院と改称した。
1952年(昭和27年)に東本願寺の飛び地境内と定められて大谷本廟と称し、1981年(昭和56年)に現在の名称である大谷祖廟となった。

東本願寺は江戸時代に4度の火災に遭っているが、その際には大谷祖廟が御真影(親鸞の影像)の避難所となった。
1823年(文政6年)の2度目の火災は11月15日であったため、この年の7昼夜の御正忌報恩講は大谷祖廟において勤められた。

所在地

京都府京都市東山区円山町477番地

交通アクセス

京阪電気鉄道京阪本線 四条駅 (京阪)から徒歩15分

阪急電鉄阪急京都本線 河原町駅 (京都府)から徒歩20分

京都市営地下鉄京都市営地下鉄東西線 東山駅 (京都府)から徒歩20分

京都市営バス 祇園バス停下車、徒歩10分

近隣情報

知恩院

高台寺

八坂神社

円山公園 (京都府)

長楽寺 (京都市東山区)

雙林寺 (京都市)

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