安国寺恵瓊 (Ekei in Ankoku-ji Temple (Temple for National Pacification) (安国寺))
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての禅僧・大名。
「安国寺」は住持した寺(安芸国安国寺利生塔(不動院))の名である。
毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)から、最終的には僧侶の身分のまま大名となった。
生涯
生年には諸説があり、天文8年(1539年)とも天文6年(1537年)ともいわれる。
父親に関しても安芸武田氏の一族である武田信重の子とも、同じく安芸武田氏である武田元繁の娘婿・伴繁清の息子とも伝わる。
天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。
その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。
僧侶としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。
慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。
一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となり、元亀元年(1570年)には豊後国の大友氏との和睦を取りまとめることに成功する。
天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と高松城 (備中国)で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が本能寺にて横死した(本能寺の変)。
このとき羽柴秀吉はその事実を隠して毛利氏に和睦案を提示し、外交僧である恵瓊はその和睦を取りまとめた。
彼は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、秀吉の信任を得る。
天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。
そのため、四国征伐後は伊予に2万3000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は伊予国6万石に加増され、僧侶でありながら豊臣大名という異例の位置付けの大名となった。
また同時に秀吉の側近も兼ねることとなり、秀吉の命令で行なわれた検地などの奉行を務めている。
文禄・慶長の役においても検使として渡海した。
恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近かったが、隆景が死去すると小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立した。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。
9月15日 (旧暦)の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取ったが、前に布陣する広家が家康にひそかに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、戦闘に参加することなく終わった。
西軍の敗北後、恵瓊は逃亡したが京都で奥平信昌隊に捕縛され、西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された(彼が処刑されたのは、もともと反徳川の旗幟を鮮明にしていなかった毛利氏を西軍に引き込んだことが原因と推測する見解もある)。
享年62。
または享年64。
墓所は建仁寺本坊内の庭に首塚があり、広島の不動院にも墓がある。
人物
天正元年(1573年)12月12日付山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いてある。
織田信長の転落と、その家臣の豊臣秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出される。