教如 (Kyonyo)

教如(きょうにょ、永禄元年9月16日 (旧暦)(1558年10月27日) - 慶長19年10月5日 (旧暦)(1614年11月6日))は、石山本願寺の第12代門主。
諱は光寿。
第11代門主・顕如の長男。
朝倉義景の娘と婚約していたが破談となった。

1570年、織田信長との間で石山戦争が始まると、父を助けて信長と徹底して戦った。
しかし1580年、信長の猛攻の前に父が正親町天皇との勅命講和を受け入れて石山本願寺を退去しようとする。
このとき教如はあくまでも徹底抗戦を主張し、勅命講和を無視してなおも本願寺に立て籠もって信長に抗戦したため、父親から義絶されてしまった。

その後、教如は大和国、近江国、紀伊国、山城国、摂津国、安芸国など諸国を転々と流浪する。
1582年、信長が本能寺の変で死去すると、父と和解した。
1592年に顕如が死去した後、長男である教如は本願寺住職の座を継ごうとしたが、それに対して豊臣秀吉がかつて父に義絶されたこと、信長と徹底抗戦した経緯などを理由に教如は後継者にふさわしくないと反対し、教如の異母弟の准如を後継者に指名した。
このため、教如は後を継ぐことができなかった。

しかし秀吉死後に徳川家康が政権を掌握すると、家康はかつて一向宗に苦しめられたことがあるという経緯からこの教如と准如の争いに介入する。
家康は教如に肩入れすることとなり、関ヶ原の戦い前夜の諜報活動(これが石田三成方に察知されて、辞世の句を認めるほど危険な目にも遭ったが、織田秀信らの協力や門徒の奮戦もあって無事帰洛を果たしている)を経て1602年、後陽成天皇の勅許を背景にして京都七条の烏丸に真宗本廟を建立した。
このため准如が継承した七条堀川の本願寺は西本願寺と呼ばれるようになり、本願寺教団は東西に分裂した。

1614年、57歳で死去。

[English Translation]