新義真言宗 (Shingi Shingon sect)
新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は弘法大師空海を始祖とする真言宗の宗派の一つで、真言宗中興の祖興教大師覚鑁(かくばん)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。
よってそれまでの真言門派を「古義真言宗」というが、決して古い教えというわけでなく、「新義」に対してのそれまでの解釈であるから、新義といっても「古義」という呼称は相応しいものではない。
また、広義では、総本山根来寺を総本山とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では、根来寺を本山とする宗派である「新義真言宗」を指す。
従来の真言宗では(いわゆる古義真言宗)では本地身説法(真言宗最高仏である大日如来が自ら説法するとする説)を説くのに対して、新義真言宗では加持身説法(大日如来が説法のため加持身となって教えを説くとする説)を説くことが大きな違いである。
信者にとっては全く関係のない次元で教義論争が続いてきた。
歴史
平安時代、僧侶の堕落停滞による真言宗没落の危機が発生し、高野山金剛峯寺の高僧だった覚鑁が宗派建て直しの緊急策を敢行。
しかし現状維持を望む保守派(本寺方・金剛峯寺方)と覚鑁派(大伝法院方)による決定的な対立が発生。
その結果、覚鑁派は高野山を去り、大伝法院の荘園であった岩手荘の豊福寺に拠点を移す。
根来での覚鑁の活動がここにはじまる。
1143年の覚鑁入寂後、同派僧侶の頼瑜を中心とした覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻したが確執は収拾せず、145年後の1288年、同派の実質的指導者であった頼瑜は門弟を連れて根来山に戻ると共に覚鑁の教義を発展させ、それまでの教義と一線を画した「新義」を打ち立て新義真言宗が確立する。
後年、根来寺は規模が拡大し僧兵による武力強化が著しく、不穏分子と判断した豊臣秀吉は1585年春、遂に大軍で根来山を攻撃、根来寺は完全に破壊され多くの僧侶は処刑された。
寺宝はおろか、かつて「教学の山・根来」とまで称された多くの新義文献も灰燼に帰し、新義真言宗は事実上壊滅状態となった。
しかし混乱の中、一部の僧侶は長谷寺や智積院の寺院に逃げ難を逃れた。
秀吉の宗教政策は総本山根来寺を智山派・豊山派に二分し、勢力を分散させ一大宗教都市根来を衰退させることにあった。
江戸時代には復興が許されたものの分散させられた僧侶は根来に戻ることは少なかった。
江戸時代、豊臣政権の清算の観点ら、徳川家の恩赦を受けて新義真言宗は復興を果たし、根来寺の再興と共に覚鑁は東山天皇より「興教大師」の称号を追贈された。
江戸後期は法住─法恕─興雅─栄性─信海─真雄─児玉浄雄と続き、明治維新後、根来寺に座主称号が復活する。
中興第一世座主は豊山派能化、守野秀善が就いたが、これまでの座主は醍醐寺または仁和寺の門跡が就任することが多く、そうした外部の座主とは別に根来寺では学頭を立てるのが慣例であった。
1886年(明治19年)には根来寺を新義派の根本道場として選定した。
1900年(明治33年)より、新義真言宗豊山派及び新義真言宗智山派の能化が3年交代により大伝法院座主を勤めたが、智豊交互に勤める風習は、戦国時代、玄誉─日秀─頼玄─玄宥─専誉あたりから見られるものである。
第二次大戦後、1953年(昭和28年)、宗教法人法の改正により根来寺を総本山とする新義真言宗が創設されるにいたり現在に至っている。
寺格(順不同)
総本山 根来寺(和歌山県岩出市)
大本山 誕生院(佐賀県鹿島市)
別格本山
準別格本山
別院 根来寺別院 一乗院(鹿児島県南さつま市)※現在は一乗院跡として鹿児島県の史跡に指定されている。
一般寺院
教育機関
新義専門学院