曼殊院 (Manshuin Temple)

曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。
山号はなし。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算(ぜさん)である。
竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。
国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。
近畿三十六不動尊第十七番。

起源

他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。
その後、12世紀頃に北山(現在の京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現在の京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地に移転したのは明暦2年(1656年)のことである。

寺伝では延暦年間(782-806)、伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。
円仁、安恵らを経て、10世紀後半の僧である是算の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したという。
最澄、円仁、安恵・・というのは天台宗の法脈を表わすもので、曼殊院の歴史は実質的には是算の時代から始まるといえる。
是算の事績についてはあまり明らかでないが、花山天皇(968-1008)の弟子であったという。

曼殊院と北野天神

曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(責任者)を兼ねていた。
通説では、曼殊院初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の創建(天暦元年・947年)に際し別当に任命されたという。
なお、是算の別当任命については、北野神社創建時ではなく、寛弘元年(1004年)、一条天皇の北野神社行幸時のこととする別説もある。
北野神社の創建年とされる天暦元年(947年)と是算の没年である寛仁2年(1018年)の間には70年もの開きがあることを勘案すれば、寛弘元年(1004年)任命説の方に妥当性があると言えよう。

天仁年間(1108-1110)、是算から数えて8代目の門主・忠尋の時に、北野神社からさほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、寺号を「曼殊院」と改めた。
別院を建設したのは、北野神社の管理の便のためと思われる。
比叡山にある本坊と北山の別院とはしばらくの間、並立していたが、次第に北山の別院が主体となっていった。

再度の移転と良尚法親王の中興

北山にあった曼殊院は、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、康暦年間(1379-1381)、洛中に移転する。
移転先は相国寺の南方、現在の京都市上京区京都御苑内に相当する。

明応4年(1495年)頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。

曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称である)。
曼殊院の現在地への移転は明暦2年(1656年)のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。
この地は曼殊院と同じく比叡山の小坊の1つで慶滋保胤らによって勧学会が開かれたものの後に廃絶した月林寺の跡地であったと言われている。

良尚法親王は桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第二皇子であり、後水尾天皇の猶子であった。
良尚法親王は天台座主(天台宗最高の地位)を務めた仏教者であるとともに茶道、華道、香道、和歌、書道、造園などに通じた教養人であり、当代文化に与えた影響は大きかった。
曼殊院に伝存する茶室、古今伝授資料(古今和歌集の秘伝を相承するための資料)、立花図(池坊流2世池坊専好の立花をスケッチしたもの)などの文化財は法親王の趣味と教養の広さを示している。

境内

境内は比叡山西麓に位置する。
入口である勅使門の左右の塀は5本の水平の筋が入った築地塀で、門跡寺院としての格式の高さを表している。
主要な建物としては玄関、大書院、小書院、庫裏、護摩堂などがある。
中心になる仏堂はなく、本尊は大書院の仏間に安置されている。
枯山水庭園は小堀遠州の作といわれる。

大書院(本堂)-明暦2年(1656年)の建築。
仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから「本堂」とも呼ぶが、解体修理の際に発見された墨書等から、建設当時は「大書院」と称されたことがわかる。
寄棟造、杮(こけら)葺きの住宅風建物である。
正面東側に「十雪の間」、西側に「滝の間」があり、「十雪の間」背後には「仏間」、「滝の間」背後には「控えの間」がある。
建物内の杉戸の引手金具にはひょうたん、扇子などの具象的な形がデザインされ、桂離宮の御殿と共通したデザイン感覚が見られる。
「十雪の間」の床の間には木造慈恵大師坐像(重要文化財)を安置し、仏間には本尊阿弥陀如来を中心とする諸仏を安置する。

小書院-大書院(本堂)の東北方に建つ。
大書院と同時期の建築で寄棟造、杮(こけら)葺きである。
間取りは東南側に「富士の間」、その北に床(とこ)・棚をもつ主要室である「黄昏(たそがれ)の間」があり、建物西側は二畳の茶室を含むいくつかの小部屋に分かれている。
「黄昏の間」の床の間脇にある棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。
「富士の間」「黄昏の間」境の欄間の透かし彫りや、七宝焼き製の釘隠し(富士山をかたどる)もこの建物の特色である。
小書院の北側には前述の二畳の茶室とは別の茶室が付属し、「八窓軒」の名で知られる。

八窓軒-小書院の北側に隣接して建つ茶室。
大書院・小書院と同時期の建築と考えられる。
平三畳台目、下座床の席。
小堀遠州風の意匠が随所に見られる。
躙口上の連子窓は虹のような影が生じることから「虹の窓」と呼ばれて殊に名高い。

国宝

絹本著色不動明王像(黄不動)-滋賀・園城寺(三井寺)に秘蔵される、黄不動像(平安時代前期)を元に制作された画像の1つであり、平安時代末期、12世紀頃の制作と推定されている。
京都国立博物館に寄託。

古今和歌集(曼殊院本)1巻- 色変わりの染紙に優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本で、11世紀にさかのぼる遺品である。
高野切本古今和歌集などと並び、平安時代の仮名の名品として知られる。
京都国立博物館に寄託。

重要文化財

大書院(本堂)(附 廊下)
小書院(附 茶室)
庫裏
玄関障壁画(紙本金地著色竹虎図) 11面
紙本著色是害房絵 2巻
絹本著色草虫図 2幅 呂敬甫筆
木造慈恵大師坐像
源氏物語 蓬生、薄雲、関屋 3冊
論語総略(紙背消息)
教訓鈔及続教訓鈔 9巻
古今伝授関係資料 73種
後柏原天皇宸翰後土御門後柏原両天皇詠草
紺紙金泥般若心経 後奈良天皇宸翰(安房国宛)
花園天皇宸翰御消息(7通)
花園天皇宸翰御消息(普賢形像事云々)
慈円僧正筆消息(十月五日 権少将宛)
池坊専好立花図(42図)1帖

名勝

庭園

曼殊院旧蔵の文化財

1. 紙本墨画秋冬山水図 2幅 雪舟筆(東京国立博物館蔵)
2. 紙本墨画松鷹図 2幅 雪村筆(東京国立博物館蔵)
3. 絹本墨画雪景山水図 朱端筆 明時代(東京国立博物館蔵)
4. 紙本淡彩東北院歌合(東京国立博物館蔵)
5. 慈円僧正願文 伝春日表白 貞応三年仲秋とあり(東京国立博物館蔵)
6. 慈円僧正願文(東京国立博物館蔵)
7. 光厳天皇宸翰消息(貞和五年三月十一日)(御物)
8. 後花園天皇宸翰消息(寛正四年五月二十三日)(御物)
9. 後陽成天皇宸翰消息(29通)1巻(御物)
10. 絹本著色猿図 伝・毛松筆 南宋時代(東京国立博物館蔵)

1 - 9は1936年、皇室財産となったため、国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)指定を解除されたもの。
うち1-6は戦後国有となったため、重要文化財に再指定されている(1は文化財保護法に基づく国宝に指定)。
10は戦後の1966年に国有となったもの。

曼殊院門跡諸大夫・侍

曼殊院門跡諸大夫
山本家
山本重龍(従五位上、筑前守)
山本重胤(従五位下、三河守)
西池家
西池季祥(従五位上、遠江守)
曼殊院門跡侍
小畠久時(従六位下、丹波介)

所在地・アクセス

(所在地)京都市左京区一乗寺竹ノ内町
(交通)
京都市営バス・京都バス一乗寺清水町バス停下車、徒歩20分
叡山電鉄叡山電鉄叡山本線修学院駅下車、徒歩20分

拝観案内

900~1700 拝観料 500円

[English Translation]