源信 (僧侶) (Genshin (Monk))
源信(げんしん)は平安時代中期の天台宗の僧。
「恵心(慧信)僧都」と尊称される。
浄土真宗の宗祖親鸞が定めた七高僧の第六祖。
源信和尚(げんしんかしょう)、源信大師と『高僧和讃』などで、尊称している。
また親鸞は『正信念仏偈』(「源信章」)で、以下のように源信の徳と教えを称え、偈頌にしている。
源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
紫式部の『源氏物語』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされる。
生涯
天慶5年(942年)大和国(現在の奈良県)北葛城郡當摩に生まる。
幼名は「千菊丸」。
父は卜部氏、母は清原氏。
天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。
天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖良源(912年 - 985年、通称:元三大師〈がんさんだいし〉)の入門し、止観業、遮那業を学ぶ。
天暦9年(955年)、得度。
天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。
そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。
その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川の恵心院(現在のものは、坂本里坊にあった別当大師堂を移して再建したもの。)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。
母の諫言の和歌…「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、師に『往生要集』の撰述に入る。
永観3年1月3日 (旧暦)、師である良源が示寂。
寛和元年(985年)3月、『往生要集』脱稿する。
寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。
寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退。
寛仁元年(1017年)6月10日、76歳にて入滅。
臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した。