狗子仏性 (Kushibussho [classic Zen koan (small presentations of the nature of ultimate reality, usually presented as a paradox)])
狗子仏性(くしぶっしょう)は、禅の代表的な公案のひとつ。
『従容録』第十八則では「趙州狗子」。
「趙州無字」とも言う。
無門関
一人の僧が趙州従シンに問うた。
「狗子に還って仏性有りや無しや」(大意:犬にも仏性があるでしょうか?)
趙州和尚は答えた。
「無」
五燈会元
なお、中国宋 (王朝)代の禅書「五燈会元(ごとうえげん)」の第4には、この続きが書かれている。
僧はまた問うた。
「上は諸仏より下は螻蟻に至るまで皆仏性あり、狗子甚麼として却て無きや」(大意:あらゆるものに仏性はあるとされるのに、なぜ犬にはないのでしょうか?)
趙州和尚はまた答えた。
「尹(かれ)に業識性の在るが為なり」(大意:欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩があるからだ。)
僧は更に問うた。
「既に是れ仏性、什麼としてか這箇の皮袋裏に撞入するや」(大意:仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?)
趙州和尚は更に答えた。
「他の知って故らに犯すが為なり」(大意:自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すが故である。)
東洋思想
原典の『従容録』では、単純に「犬に仏性は無い」という答えである。
しかしこれを公案として観ずると、この答えは「有(ある)」「無(ない)」という単純な二元論を超越した。
維摩経における不二法門に通ずる絶対的な無であると解される。
これによって後の諸家は、趙州の「無」の一言で自身の仏性を露見させ現じた、とする。
この解釈によって、狗子仏性の公案は東洋思想を代表的するひとつ、また禅問答の典型として、世界の思想界に知られることになった。