盂蘭盆 (Urabon festival (a Buddhist festival))
盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、)とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。
これは『盂蘭盆経』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説による。
語義
盂蘭盆は、サンスクリットの「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。
「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味である。
近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。
サンスクリット語の起源から考えると可能性が高い。
古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における聖霊・下級神、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在、この「フラワシ」は人間にも宿っており、人間に宿る魂のうち、最も神聖な部分が「フラワシ」なのだと言う、ここから、フラワシ信仰が祖霊信仰と結びついた)すなわち「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事が行われていた。
一説によると、これがインドに伝えられて盂蘭盆の起源になったと言われている。
目連伝説
一般にはこの「盂蘭盆会」を、「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。
この行事は本来インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に起こってきたものであろう。
現在、この「盂蘭盆会」のよりどころとしている『盂蘭盆経』は、『父母恩重経』や『善悪因果経』などと共に、中国で成立した偽経であると考えられている。
したがって、以下のような過程が考えられる。
本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が存在した。
転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていった。
それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたのであろう。
盂蘭盆経に説いているのは次のような話である。
安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。
喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うた。
と、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。
その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行った。
比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。
すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。
中国での盆会
この盂蘭盆会の中国での起源は随分古く
『仏祖統紀』では、梁 (南朝)の蕭衍の大同 (梁)4年(538年)に帝自ら鶏鳴寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられている。
『仏祖統紀』は南宋代の書物なので梁の武帝の時代とは、約700年の隔たりがある。
そのため、一次資料とは認め難い。
しかし、梁の武帝と同時代の宗懍が撰した『荊楚歳時記』には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、『盂蘭盆経』の経文を引用している。
このことから、すでに梁の時代には、偽経の『盂蘭盆経』が既に成立し、仏寺内では盂蘭盆会が行なわれていたことが確かめられるのである。
この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日 (旧暦)を中元節(中元)といって、先祖に供物し、灯籠に点火して祖先を祭る風習によってであろう。
この両者が一つとなって、盂蘭盆の行事がいよいよ盛んになっていったと思われる。
南宋代になって、北宋の都である開封の繁栄したさまを記した『東京夢華録』にも、中元節に賑わう様が描写されている。
そこでは、「尊勝経」・「目連経」の印本が売られ、「目連救母」の劇が上演され好評を博すほか、一般庶民が郊外の墓に墓参に繰り出し、法要を行なうさまも描かれている。
日本での盆会
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日 (旧暦)と7月15日に斎を設けるとあり、また斎明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記されている。
その5年7月15日には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている。
後に聖武天皇の天平5年7月(733年)には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日 (旧暦)に開催し、孟蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。
奈良時代、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼」(せがきえ)をあわせ行なった。
また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともあった。
主として現代日本における風習についてはお盆もあわせて参照のこと。