石泉学派 (Sekisen school)
石泉学派(せきせんがくは)とは、浄土真宗本願寺派の学派のひとつである。
江戸時代に長浜(現、広島県呉市長浜)の地で「石泉塾」を開いた、同派の学僧の石泉僧叡(せきせんそうえい)の流れをくむ。
本願寺派の教学理解では、空華学派(くうげがくは)と二大学派をなす。
今日では、同派の公式な教学に空華学派の説が用いられているため、異端の扱いを受けている。
学説
空華学派の学説との根本的な差異は、浄土真宗の重要な教義のひとつである「信」についてみられる。
石泉学派
「信」を「心が清浄になること」と定義し、あくまで主体的・一元的な「信」を説く。
このことは、阿弥陀仏を自己の心の内に想定するものである。
空華学派
阿弥陀如来を、現実の外界に実在するものとして想定し、これに「頼る」あるいは「すがる」ことを「信」であると定義し、対象をとる二元的な「信」を説く。
歴史的な背景
本来、釈迦の教えは徹底した自力救済を説くものであり、阿弥陀仏への信仰による他力救済を根本教義とする浄土門は、異端的な流れとして存在する。
このことは仏教の根本を乱すものであるとして、旧来の仏教者たちから厳しく非難されてきた。
真宗学者の信楽峻麿によれば、これは親鸞の教えを継承した、彼より後の指導者達、とりわけ蓮如の、自身なんら信じていない政治的かつ欺瞞に満ちた教説によって、真宗の信心のあり方が大きく歪められた結果であった。
(cf.王法為本、後生御免、一休と蓮如の阿弥陀如来像をめぐるやりとり)
この問題は、宗派内でも様々に論議されてきた。
この、阿弥陀如来による救済思想と、自己救済としての仏道という二つの矛盾する考え方を、どのように理解していくかという試みの中で、称名念仏行を重視し、信心を「心が澄んで清らかになる」として理解する教学が形作られた。
これは種々の異安心によって、きびしく自力を否定する伝統的な真宗教学の内において、本来の仏教的な流れを取り戻そうとするものである。