阿野全成 (ANO Zenjo (or Zensei))
阿野 全成(あの ぜんじょう/ぜんせい、仁平3年(1153年) - 建仁3年6月23日 (旧暦)(1203年8月1日))は平安時代末期、鎌倉時代初期の僧で、源義朝の七男。
阿野法橋全成とも。
母は常盤御前。
幼名・今若丸。
義円・源義経の同母兄、源頼朝の異母弟。
妻は北条時政の娘阿波局 (北条時政の娘)。
子は播磨公頼全(はりまのきみよりまさ)、阿野時元、藤原公佐室、他。
生涯
今若が7歳の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。
通称醍醐禅師、もしくはその荒くれ者ぶりから悪禅師とも呼ばれた(『平治物語』)。
治承4年(1180年)8月17日、異母兄の源頼朝が伊豆国で挙兵。
それを知った全成は寺を抜け出し、同年8月26日石橋山の戦いで頼朝が敗北した直後に佐々木定綱ら兄弟と行き会い、相模国渋谷荘に匿われる。
10月1日には下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たす。
源氏一門で最初の合流であった。
全成は京都で令旨が出された事を知り、密かに寺を抜け出して修行僧に扮して下ってきた事を語り、頼朝は泣いてその志を喜んだ。
頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺(現川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局 (北条時政の娘)と結婚。
阿波局は頼朝の次男千幡丸(後の源実朝)の乳母となり、以降頼朝政権において地味ながら着実な地位を築いた。
しかし正治元年(1199年)に頼朝が死去し、甥の源頼家が将軍職を継ぐと、全成は源実朝を擁する舅の北条時政と義兄弟の北条義時と結び、頼家一派と対立するようになる。
建仁3年(1203年)5月19日の深夜0時頃、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し鎌倉御所に押し込めた。
全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。
享年51。
7月16日には京都の東山延年寺で、子の播磨公頼全が在京御家人によって殺害された。
全成の墓は、静岡県沼津市の大泉寺に嫡男阿野時元のものと並んで現存し、市の史跡に指定されている。
子孫
武家としての阿野氏は時元の系統に受け継がれる。
その子孫は、南北朝時代 (日本)期までは確実に存在したことが記録に残っているが、同じ河内源氏の系統に繋がる源氏庶流の足利氏などと比べても、非常に小さな勢力でしかなかった。
これは、全成や時元が謀反人として誅殺されたという事実が大きく作用しているが、また別の要因として、阿野氏が源義朝の子孫であり、義朝の数代前の分家である足利氏などと比べても源頼朝に近い血統であったため、北条氏から非常に警戒されていたためということが考えられる。
また全成の娘は藤原北家藤原魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子阿野実直は母方の名字を称し公家としての阿野家の祖となっている。
後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。
また、幕末期に活躍した玉松操もこの阿野家の末流に連なる人物である。