隠元隆き (INGEN Ryuki (Also known as Yinyuan Longqi))
隠元隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日 (旧暦)(1592年12月7日) - 寛文13年4月3日 (旧暦)(1673年5月19日))は、中国明末清初の禅宗の僧で、福建省福州福清の生まれで俗姓は林である。
独特の威儀を持ち、念仏禅を特徴とする明朝禅を日本に伝え、やや先に渡来した道者超元(? - 1660年, 1651年来朝、1658年帰国)と共に、当時の禅宗界に多大な影響を与え、臨済宗・曹洞宗二宗の復興運動にも大きな影響を与えた。
また日本における煎茶道の開祖ともされる。
生い立ち~渡来前
福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。
俗名は、林曽炳。
10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。
23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者として奉仕した。
29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺 (中国福建省)の鑑源興寿の下で得度した。
33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟禅師に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、隠元も随行した。
35歳で、大悟した。
38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。
その後隠元は萬福寺を出、獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎10年(1637年)に晋山した。
その後、退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山した。
渡来以降
江戸初期、長崎市の唐人寺であった崇福寺 (長崎市)の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺 (長崎市)住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。
当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したことから、やむなく承応3年(1654年)に、隠元自ら、鄭成功が仕立てた船に乗り、多くの弟子を率いて来日した。
渡日当時、中国は明末清初の騒乱期であったことから、この騒乱を避けて来日したとされているが、残されている書簡や記録等からは、そのように判断する根拠は乏しい。
隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。
明暦元年(1655年)、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津国嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺 (高槻市)に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。
隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658年)には、将軍徳川家綱との会見に成功した。
その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治市郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。
寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。
以後、中国福清の黄檗山萬福寺は「古黄檗」と呼ばれる。
黄檗宗開教以降
これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。
本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。
もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。
隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。
隠元には、後水尾天皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。
萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664年)9月に後席は弟子の木庵性瑫に移譲し、松隠堂に退いた。
松隠堂に退隠後、82才を迎えた寛文13年(1673年)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月になり、体調がますます衰え、4月2日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。
翌3日に遺偈を認めて示寂。
世壽82才。
能書家としても知られ、木庵性瑫、即非如一とともに黄檗の三筆と称される。
語録・著作
『隠元禅師語録』16巻
『普照国師広録』30巻
『黄檗隠元禅師雲涛集』1巻
『弘戒法儀』1巻
『黄檗山寺志』1巻
『黄檗清規』
弟子
嗣法者は23名で、内3人が日本人である。
木庵性トウ
即非如一
慧林性機
龍渓性潜
独湛性ケイ
大眉性善
独照性円
独本性源
隠元豆
隠元が来日した際に日本に持ち込んだため、その名が付いたとされる「インゲンマメ」は、中南米原産のマメ科の作物。
ヨーロッパに伝わった後、ユーラシア大陸を横断して中国から日本に伝来した。
但し、隠元が持ち込んだのは、現在の「フジマメ(藤豆)」だという説もあり、関西ではフジマメのことを「インゲンマメ」と呼ぶ。