信円 (Shinen)
信円(しんえん、仁平3年(1153年)- 元仁元年11月19日 (旧暦)(1224年12月30日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての興福寺の僧。
別当として南都焼き討ちからの復興に尽力し、現在の興福寺の基礎を築きあげた。
父は藤原忠通。
太政大臣九条兼実・天台座主慈円とは異母兄弟である。
興福寺に入り尋範・慧信・蔵俊に師事して法相教学を受けた。
法務大僧正となり、1181年(養和元年)興福寺別当に任じられ、興福寺内の2大院家であった一乗院・大乗院の両門跡を共に継承した。
龍華樹院・禅定院・喜多院の3院家と合わせて興福寺内の有力5院家を兼帯するに至った。
1180年(治承4年)12月28日の南都焼討による興福寺主要堂屋の回禄直後の、平清盛病没後平氏の棟梁となった平宗盛による南都諸寺への処分撤回に伴う別当就任であった。
その後およそ10年に渡るその任期の大半は興福寺復興に伴う朝廷や幕府、それに藤原氏との交渉と、実際の再建事業に費やされた。
1185年(文治元年)8月に東大寺大仏殿開眼呪願師となり、1203年(建仁3年)大仏殿供養の導師をつとめた。
一方で九条兼実と頻繁に交流し、その子良円を託されて弟子とするなど、慈円らとともに九条家の宗教的護持にあたった。
修験との関わりも深く、師である尋範の跡を襲って修験道当山派の当山三十六正大先達衆を構成する一寺であった内山永久寺の別当職に就いたほか、1208年(承元2年)まで長らく金峯山検校職を兼任した。
また、教学の面から興福寺の再興に尽力した貞慶や東大寺再興に奔走した重源との親交も深く、特に前者との交友は互いが遁世した後も続いた。
別当職を権別当として長く彼を補佐した覚憲に、一乗院門跡を弟子の良円に、大乗院門跡を同じく弟子の実尊に、それぞれ譲って後、1191年(建久2年)には法務大僧正を辞し、翌1192年(建久3年)には自ら再興事業に着手した菩提山正暦寺に隠遁し「菩提山僧正」あるいは「菩提山御房」と呼ばれた。
正暦寺においても南都焼討に伴う回禄で失われた諸堂の再興と整備に尽力し、同寺中興の祖と称されている。