僧録 (Soroku)

僧録(そうろく)とは、中世以後僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職である。

中国では、北宋初の右街僧録であった賛寧の『大宋僧史略』巻中「左右街僧録」によれば、唐の元和_(唐)年間に設置されたのが始まりとされている。
端甫法師が最初とする。
その後、文宗 (唐)の開成 (唐)年間に始めて左右街僧録が設けられたという。

日本では、建武_(日本)3年(1336年)に足利尊氏の元に禅宗(臨済宗・曹洞宗両宗)及び律宗(真言律宗を含む)などを統括していたが、禅律方(ぜんりつがた)が設置され、細川和氏、藤原有範(藤原南家)、佐々木氏頼、赤松則祐らが任命された。
後に室町幕府の正式な機関となり、足利義満の元で僧録司(そうろくし)と呼ばれて五山派の春屋妙葩が初代の僧録に任じられた。
幕府と五山のつながりが強まるにつれて僧録は五山の僧侶によって独占され、臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括するようになった。
特に相国寺鹿苑院の絶海中津が僧録に任じられると、以後義満の塔所が同院に置かれた事もあり、その住持が僧録を兼務するようになり「鹿苑僧録(ろくおんそうろく)」と呼ばれるようになった。
鹿苑僧録は五山以下の諸寺の寺格決定やその住持の任免、所領・訴訟などの処理を行うなど、幕府に対しても大きな影響力を有したが、後に名誉職化して皇族などが血筋によって僧録に任じられるようになると、僧録と幕府の連絡役であった蔭涼職(いんりょうしき)が実務の責任者となった。

江戸幕府成立後の元和_(日本)元年(1615年)、諸宗寺院法度が制定されると、僧録・蔭涼職が廃止されて幕府の直接支配が図られた。
だが、4年後に幕府によって以心崇伝が改めて僧録に任命された。
以後、崇伝のいた南禅寺金地院の住持が僧録を兼務するようになり、「金地院僧録(こんじいんそうろく)」と呼ばれるようになった。
また、曹洞宗の関三刹のように臨済宗以外の宗派にも僧録が置かれた宗派も存在した。

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