叡尊 (Eison)

叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日 (旧暦)(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。
字は思円(しえん)。
謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。
興福寺の学僧慶玄の子で、大和国の生れ。
戒律を復興し、奈良西大寺 (奈良市)を復興した僧として知られる。

生涯

17歳で醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。
のち高野山に入り真言密教を学んだが、1235年(嘉禎元年)戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となった。
翌1236年(嘉禎2年)覚盛(かくじょう)、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒し、海龍王寺を経て1237年(嘉禎3年)西大寺に戻り結界し、律宗を復興させた。

授戒・文殊菩薩供養・光明真言などの宗教行為による殺生禁断・慈善救済・宇治橋の修繕などを行った。
非人・らい病者から後嵯峨上皇・亀山上皇・後深草上皇に至るまで貴賎を問わず帰依を受けた。
また、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれて鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じた。
また、国分寺や法華寺の再興にも務めて、長年閉ざされてきた尼への授戒を許した。
また、弘安5年(1282年)に四天王寺別当の地位を巡って天台座主(延暦寺)の最源と園城寺長吏の隆弁が自派の候補を出し合って争った際には、朝廷の懇願を受けて両者と利害関係のない叡尊が別当に就任している。
尚、弟子に忍性・信空 などが居る。

一般には戒律・律宗復興の業績で知られているが、叡尊の本来の意図は権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生であった。
そのためにまず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興を図った。
日本律宗の祖である鑑真が「四分律」を奉じたのに対して、叡尊は真言宗を開いた空海が重んじた「十誦律」を奉じている。
また、戒律復興と並行して真言密教の研究を重視しており、弟子の忍性が東国において社会活動や布教に熱を入れすぎて教学が疎かになっているのを窘めたり、元寇の際には西大寺や四天王寺などでモンゴル帝国軍撃退の祈祷や密教儀式を行っている。

著書に「感身学正記」「梵網経古迹記輔行文集」がある。

[English Translation]