大典顕常 (DAITEN Kenjo)
大典顕常(だいてん けんじょう、享保4年(1719年) - 享和元年2月8日 (旧暦)(1801年3月22日))は江戸時代中期 - 後期の禅僧、漢詩人である。
大典と高遊外との交遊は有名であり『売茶翁伝』を著している。
また伊藤若冲の支援者としても知られる。
漢詩をよくし京都禅林中最高の詩僧と称されている。
生涯に70冊以上もの浩瀚な書を著した。
禅の高僧でもあり相国寺第113世となっている。
顕常は諱である。
大典は号 (称号)で大典禅師と呼ばれる。
宗派内は梅荘と号していたが、のちに焦中と改号した。
その他に近江国出身であることから淡海、居処の名に因んで小雲棲、北禅書院、ほか東湖山人、不生主人、太真などと号している。
竺常(じくじょう)と名乗るがこれは「釈(顕)常」のことであり、諱が二つあるわけではない。
本姓は今堀、通称 太一郎。
略歴
近江国神崎郡 (滋賀県)伊庭郷(現 滋賀県東近江市)の儒医 今堀東安の子として生まれたとされるが、権大納言園基勝(その もとかつ)の私生児でその後里子に出されたとの説が有力である。
8歳のとき父と上京し、はじめ黄檗山の華蔵院に入ったが臨済宗に転じて11歳で相国寺慈雲庵にて得度する。
独峰慈秀の下で禅の修行に勤しみながらも、20代後半まで宇野明霞や大潮元皓に儒学の一派である古文辞学を学んでいる。
儒学の師 明霞が歿した3年後に、大典は師の遺稿を編集して『明霞先生遺稿集』として刊行しているが、師の信任が篤かったことが伺える。
明霞門の盟友に片山北海がいるが、彼の主催する混沌詩社にも参加して詩文を磨いている。
32歳で住持になるが師独峰が示寂すると病気を理由に致仕を願い出て許される。
公務に縛られることなく文芸に身を投じたいという文人的な隠逸を望んだものと思われる。
43歳のとき代表作『昨非集』を刊行した後、旺盛に詩作と著述に励んだ。
多くの文人墨客と積極的に交わり、特に慈周とは終生の親交をもった。
中国において貴重な経典が失われる事件があったとき、大典は慈周とともにこの寄贈を果たしたというエピソードがある。
ほかにも異才の画家 伊藤若冲に支援を続け、相国寺の襖絵などを画かせている。
また売茶翁のよき理解者として煎茶道を広めることに尽力し『茶経評説』などを著している。
さらに木村蒹葭堂と協力して清国の『煎茶訣』を刊行し本邦に紹介している。
売茶翁の生涯を綴った唯一の伝記「売茶翁伝」(『売茶翁偈語』巻頭)を著し後世に伝えた。
そのほかにも池大雅の詩文の師であり、菅茶山、高芙蓉、葛子琴、篠崎三島らとの交流が伝えられている。
53歳になり帰山すると相国寺住持に推され、続いて京都五山碩学と朝鮮修文職を任じられる。
62歳のとき、対馬の以酊庵に住持として2年間赴任する。
帰山後は南禅寺住持になり、江戸幕府の辞令を受けたことへの拝礼のため江戸に下る(1785年)。
松平定信に優遇され、再度江戸に招かれている。
このころに朝鮮通信使に関する国書の起草に関与しているが、以降朝鮮外交に関して幕府顧問となって活躍した。
天明の大火(1789年)で相国寺も全焼し貴重な典籍の再収集や再建に尽力している。
享和元年(1801年)歿。
享年83。
詩
古文辞派の詩風ではあったが、和歌の教養も深くその要素を漢詩に取り込もうと試みている。
仏教的な枠に囚われることなく自由で大胆な作風である。
多くの詩集を刊行し多作であった。