天海 (Tenkai)
天海(てんかい、天文 (元号)5年(1536年)? - 寛永20年10月2日 (旧暦)(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧である。
南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。
大僧正。
諡号は慈眼大師。
徳川家康のブレーンとして、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
天海の出自
三浦氏の一族である芦名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。
その根拠は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名盛高の一ぞく」と記されていることである。
しかし、同時にそこには、「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
また、「将軍足利義澄の末の御子といへる人も侍り」と、足利将軍落胤説も同時に載せられている。
どちらの正誤も明確ではなく、天海の前半生は不詳である。
天海の生年
生年もはっきりしていないが、長命であったことは確かであるとされる。
小槻孝亮の日記「孝亮宿祢日次記」には、天海が寛永9年(1632年)4月17日に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。
これに従うと生年は天文 (元号)5年(1536年)と推定され、没年は104歳となる。
このほか永正7年(1510年)(上杉将士書上)、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある。
しかしこれらは比較的信頼度が低い史料が元であるとされている。
前半生
一説に「随風」と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮城の粉河寺 (宇都宮市)の皇舜に師事して天台宗を学んだ後、近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。
元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと、武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。
その後さらに上野国の長楽寺 (太田市)を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。
このとき、江戸崎不動院の住持も兼任していた。
浅草寺の史料によれば、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。
これからは、天海が関東に赴いたのはそもそも家康のためであったことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。
その後、天海は家康の参謀として、朝廷との交渉等の役割を担う。
慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。
ただし、辻達也は天海が家康に用いられたのは慶長14年(1609年)からだとしている。
この年、朝廷より権僧正の僧位を受けた。
また、慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め、関東天台の本山とする。
慶長18年(1613年)には、家康より日光二荒山神社貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。
後半生
元和 (日本)2年(1616年)、危篤となった家康は、神号や葬儀に関する遺言を天海らに託す。
家康死後には神号を巡り崇伝、本多正純らと争う。
天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、金地院崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。
天海が2代将軍となった徳川秀忠の諮問に対し、明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで、家康の神号は「東照大権現」と決定され、家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮に改葬、輪王寺を建立した。
その後も、2代将軍徳川秀忠・3代徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。
江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。
紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。
これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。
寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。
その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。
天海が没する前に歌った歌も知られている。
善い人を説いた歌である。
「気は長く つとめはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ」
「長命は粗食 正直 日湯(ひゆ) 陀羅尼 おりおり御下風あそばさるべし」
墓所は栃木県日光市。
慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。
廟所
慈眼堂 (大津市)
- 坂本 (大津市)にある天海の廟所
慈眼堂
- 輪王寺にある天海の廟所
天海に関する逸話
天海は前半生に関する史料がほとんど無いにも関わらず、希な長寿に恵まれ、大師号を贈られるほどの高僧になった。
また、天海は機知に富んだ人物であり、当意即妙な言動で周囲の人々を感銘させた。
そのため天海には様々な逸話がある。
徳川幕府が林鵞峰に命じて続本朝通鑑を編纂する際に上杉家から献上された報告書「上杉将士書上」によると、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したという。
この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たが、後に信玄に聞くと「あれは影武者だ」と答えられたという。
ただし、この史料はこの時天海が45歳だったことになっていることや、実在が疑われている宇佐美定行が上杉二十五将に数えられているなど、不自然な点も多い。
天海が名古屋で病気になった。
江戸から医者が向かったが、箱根で医者の行列が持つたいまつの火が大雨で消えてしまった。
すると無数の狐が現れ、狐火をともして道を照らしたという。
ある時、将軍徳川家光から柿を拝領した。
天海は柿を食べると種をていねいに包んで懐に入れた。
家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。
「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。
数年後、家光に天海から柿が献上された。
家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたという。
大坂城の建物を利用した博物館大阪城天守閣は、天海が着用したという伝承がある甲冑を所蔵している。
異説
芦名説の問題は、その曖昧な根拠しかないうえに、その人脈を含め、天海と芦名氏を結ぶものが何もないことである。
例えば、芦名氏の家紋は、三浦であるから「丸に三引き両」である。
しかしながら、天海の用いた紋(今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂で見ることができる)は、「二引両」と「輪宝紋」であり、芦名氏のものとは明らかに異なる。
「丸に二引き両」は足利氏のものであるが、足利氏の庶流(斯波氏・吉良氏・今川氏等)や美濃国に発祥する遠山氏も用いている。
一方の「輪宝紋」は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。
武家でも摂津国や三河国の三宅氏が三宅輪宝と呼ばれる紋を使い加納氏や津軽氏も用いている。
家紋は苗字と同じであり、自らの出自と無関係に用いることは普通ない。
少なくとも、出自と無関係な家紋(それも2種類)の使用、すなわち詐称を天海ほどの高僧が行うとは思えないのである。
その出自の曖昧さもあり、小説等で出てくる説として、天海が足利将軍家12代足利義晴の子という説や、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀と同一人物という説がある(墓所である日光市に「明智平」という場所があることなどが根拠に挙げられることが多い)。
天海と明智光秀が同一人物だと享年は116になり、天海を明智光秀とするのは年齢的にやや無理があるが、それに近い人物である可能性もある。
テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定によると、天海と光秀は別人であるが、類似した文字が幾つかあり、2人は親子のような近親者と推定できるという。
ここから光秀の従弟とされる明智光春、あるいは本能寺の変で先鋒を務め、山崎の合戦の敗戦後に坂本城で自害したとも琵琶湖の湖上を馬で越えて逃亡したとも伝わる娘婿の明智秀満(旧名:三宅弥平次)とする説がある。
また天海の没年は諸説あるが最高で135才だともいい、光秀と秀満との2代で演じたという説もある。