宗峰妙超 (SHUHO Myocho)
宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう、弘安5年(1282年) - 延元2年/建武 (日本)4年12月22日 (旧暦)(1338年1月13日))は、鎌倉時代末期の臨済宗の僧。
一般には大燈国師の名で知られている。
諱は妙超、号は宗峰。
播磨国(兵庫県)の出身。
同国浦上荘の豪族で、守護・赤松氏の家臣・浦上氏の一族・浦上一国の子として生まれた。
朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられた。
京都の大徳寺の開山。
経歴
11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日(こうほう けんにち)、京都の南浦紹明(なんぽ じょうみん;大応国師。1235年 - 1308年)に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)、26歳のとき、師から印可を得た。
嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)をする。
修行に励むが、峻烈無比の禅風の故に近づく人も少なかった。
正和4年(1315年)(元応元年=1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。
これが大徳寺の起源とされる。
花園天皇(1297年 - 1348年)は宗峰に帰依し、正中 (日本)2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めた。
門下に関山慧玄(1277年 - 1360年)がいる。
建武4年(1337年)、妙超は病に伏し重態となるが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙した。
また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とするにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名し、その年の12月22日、妙超は死去。
妙心寺では、この建武4年を開創の年とし、妙超の遺命を受けた関山慧玄が開山となっている。
禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向した。
自ら公案をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便を使わず、正面より禅の極みを打ち出した。
師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。
著述には『大灯国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』などがある。
エピソード
宗峰妙超は、まくわうりが好きであった。
妙超が乞食の群れの中にいることを知った花園天皇は役人に高札を立てさせ、某日まくわうりを乞食にただで与える旨を布告した。
当日、役人がまくわうりを求める乞食の群れに向かって「脚なくして来たれ」というと、乞食の一人がすかさず「無手で渡せ」と答えたので妙超であることがわかってしまった。
妙超が花園天皇と初めて対座したとき、あまりに妙超が堂々としているので、天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、妙超はすかさず「王法不思議、仏法と対坐す」とやりかえした。