念阿弥慈恩 (NENAMI Jion)
念阿弥 慈恩(ねんなみ じおん、? - 没年不詳)は日本の南北朝時代 (日本)から室町時代にかけての剣客、禅僧。
剣術流派の源流のひとつである念流の始祖とされる。
俗名、相馬四郎、諱は義元。
戒名、奥山慈恩または念阿上人。
経歴
奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、相馬左衛門尉 忠重の子。
弟に赤松三首座がいる。
父忠重は新田義貞に仕えて戦功があったといわれるが、義元が5歳の時に殺された。
乳母に匿われた義元は武州今宿に隠棲した。
7歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。
念阿弥は父の敵討ちをめざして剣の修行を積んだ。
10歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったという。
16歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かった。
さらに5月、筑紫・安楽寺での修行において剣の奥義を感得した。
このとき18歳。
京の鞍馬山で修行したことから、「奥山念流」あるいは「判官流」といい、また、鎌倉で秘伝を授かったことから「鎌倉念流」ともいう。
念阿弥は還俗して相馬四郎 義元と名乗った。
奥州に帰郷して首尾良く父の仇敵を討つと再び禅門に入り、名を慈恩と改めた。
こののち諸国を巡って剣法を教え、晩年の、信州波合村(後の浪合村、現阿智村波合)に長福寺を建立、念大和尚と称した。
没年は不明である。
長福寺のあった麻利支天山(現念流山)の中腹には、江戸時代に樋口定雄(馬庭念流16世、十郎右衛門)が建てた念大和尚の石碑が残る。
門人
馬庭念流宗家の樋口家に伝わる『樋口家文書』や間光延が著わした『剣術系図』によれば、慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとした。
彼らは、「十四哲」と称される。
綿谷雪の『日本剣豪100選』では主な門人を次のとおり挙げているが、これについては疑問視する意見もある。
なお、猿御前という人物については未詳である。
通常、陰流開祖は愛洲久忠とされており猿御前との関係は不明である。
また、沼田法印は丹石流の遠祖とされるが、『本朝武芸小伝』では丹石流は東軍流系とされている。
また、綿谷雪・山田忠史編纂の『増補大改訂 武芸流派大事典』の「念流」の項(683 - 685ページ)に『樋口家文書』と間光延の『剣術系図』に記された門人名の比較が掲載されている。
『剣術系図』には猿御前・沼田法印・樋口太郎兼重の名前は記されていない。
二階堂右馬助(二階堂流)
赤松三首座(念首座流、正法念流)
堤宝山(宝山流)
中条判官(中条流)
甲斐筑前守(中条流、富田流)
猿御前(陰流)
沼田法印(丹石流)
樋口太郎兼重(樋口念流)