日我 (Nichiga)
日我(にちが、永正5年(1508年)- 天正14年11月11日_(旧暦)(1586年12月21日))は、戦国時代_(日本)の法華宗の僧侶。
安房国保田妙本寺14世。
字は要賢。
日向国出身。
「進大夫阿闍梨」と称された。
6歳のとき、妙本寺11世日要の門人となるが、同年に日要が死去したため、日俊が師となった。
天文_(日本)元年(1532年)25歳の若さで妙本寺を継承する。
同4年(1535年)頃、稲村の変に勝利して安房里見氏の当主となった里見義堯の知遇を得て、以後深い崇敬を受ける。
日隆 (法華宗本門流)の八品主義に反対して、日要の奉じた文底寿量説を発展させて富士門流の発展に尽力して京都要法寺の日辰とともに「東我西辰」と並称された。
また、近年では里見義堯の政治・宗教顧問としての活動にも注目されている。