景轍玄蘇 (Keitetsu Genso)

景轍玄蘇(けいてつげんそ、天文 (元号)6年(1537年)- 慶長16年10月22日 (旧暦)(1611年11月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。
父は河津隆業。
字は景轍。
号は仙巣。
筑前国の出身。

永禄年間(1558年 - 1570年)に博多聖福寺の住持となった。
京都東福寺の住持を経て、1580年〈天正8年)対馬国宗義調の招きにより対馬島に渡った。
以酊庵を開創して日本国王使として朝鮮外交を行った。
文禄の役の際には、豊臣秀吉に用いられ、朝鮮と和議の交渉に当たった。
1595年〈文禄4年)秀吉の命により中国の明に渡り、その際に明の万暦帝から本光国師の号を賜っている。
徳川政権になってからも、1609年〈慶長14年)に己酉条約を成立させるなど、朝鮮外交の任に当たった。

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