本仏 (Honbutsu (the Primordial Buddha))

本仏(ほんぶつ)とは、無数の仏(如来)の中で、根本となる仏(如来)のこと。

もともと仏教では、過去七仏にみられるように釈迦仏が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した仏陀たちの前世の功徳が累積した結果であるという思想があった。
また異端とされる提婆達多派の仏教集団は釈迦を仏と認めず、それ以前に出現した賢劫の三仏を信仰の対象としていたことでも知られる。

大乗仏教が広まってからの古代インドにおいては、仏は釈尊だけではなく、多くの人々が仏として尊崇されてきた。
それらの仏達を迹仏(しゃくぶつ)と呼び、すべては本仏が仮の姿を現したものとする。
釈尊滅後、釈尊が仏になることができたのは、在世の修行のみならず、過去世における長い修行の結果であるという思想が生まれた。
また釈尊の過去世には無数の仏の下で修行したこととされた。
やがて、それらの仏のなかでも、一番の原因となる本仏が想定されるようになったと考えられる。

本仏思想は12世紀頃の天台宗に見られる。
日蓮の本仏思想は、中古天台思想の影響といわれている。
現在の天台宗は本仏思想を説いていない。
本仏思想は日蓮宗勝劣派と呼ばれる宗派のみが積極的に主張している。

日蓮本仏論

初期の仏教では、釈尊が出家して6年間修行して悟りを啓いたとしている。
これを始成正覚(しじょうしょうかく)という。
しかし釈尊滅後、やや時代が下ると、法華経などのような一部の経典において、たとえば如来寿量品第十六には、「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫なり」などと書かれ、釈尊は、生まれる前にすでに仏であり長い間、法を説いていたという思想が生まれた。
これらの思想は、現世における修行で仏になったのではなく、長い長い輪廻の間、気の遠くなるような修行(歴劫修行=りゃっこうしゅぎょう)の果てに、ようやく成仏ができるという思想を生み出す元と成った。
しかし、一方では、そんな長く困難な修行は、とても出来ないという拒否反応を招くこととなる。
そこで登場したのが、末法思想である。
釈尊は法華経に説かれるように五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)に始まる有始有終の仏である。
したがって釈尊の教えは、末法では役に立たない(白法隠没=びゃくほうおおんもつ)。
末法の世では釈尊の代わりに、無始無終の久遠元初の根本仏である日蓮の教えによって救われる。
これが日蓮本仏論である。

もっとも、日蓮本人は一言も本仏であると宣言したことはない。
日蓮の一部の弟子達が唱え始めた思想であり、異端派として消え行く存在になっている。

釈迦本仏論

日蓮宗・法華宗下の教義のひとつ。
上述の日蓮本仏論と対立する。
法華経の如来寿量品第十六の文中に無量長寿の釈迦牟尼仏が登場するが、この釈迦牟尼仏こそ本仏であるであるという教義。
この本仏としての釈迦牟尼仏は久遠仏ないしは久遠実成本仏とも呼ばれる。
無量の諸仏はこの本仏の迹仏とする。
大乗仏教経典には十方の仏をはじめ、現在過去未来の無量の諸仏が登場するが、すべて本仏釈迦牟尼仏のコピーに過ぎず、単なる迹仏と言う論である。
この本仏は紀元前のユーラシア大陸のインドに生まれて肉体を持ち八十年生きたと言うゴータマ・シッダルタ(釈迦)とは論者により必ずしも同体ではないが、ユーラシア大陸に生まれたゴータマ・シッダルタ(釈迦)の精神とも言える存在である。
この論では、日蓮は仏弟子であり、本仏ではないとなる。

なお涅槃経では、法華経の久遠実成を引継ぎつつ、それを更に発展昇華し、如来は入滅後においてもその仏性は永遠に存在すると説いた。
これを如来常住不変易、あるいは三宝一体常住不変易、また久遠常住という。
また涅槃経では、末法思想は単なる段階的説法の方便説として最終的に否定した。
そして、「未来の世に、如来は入滅して既にこの世にいないと説く悪比丘が現れるために、この涅槃経を説く」と随所に説いている。

[English Translation]