本門佛立宗 (Honmon Butsuryu Sect)

本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、長松清風によって開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ、法華系の一派である新宗教。

開祖
長松清風

長松清風(日扇)は、人生への懐疑から法華経本門の教えに帰依して出家したがあきたらず、やがて独自の道を歩み、1857年(安政4年)41歳のとき京都蛸薬師に在家主義の本門佛立講を開いたのに始まる。
清風(日扇)の教えは、どこまでも南無妙法蓮華経の唱題の利益を信じることこそ第一とし、また目に見える現世的利益の現証を強調するものであった。
寺院・僧侶の意義を認めない徹底した在家主義は、やがて徒党を組む既成寺院の僧侶から度重なる当局への讒言となり、清風(日扇)は弟子とともに逮捕されること2回、遠足止めなどの弾圧を受けるが、1878年(明治11年)には清風(日扇)自ら「花洛佛立講三十三組、人数凡1万人」というほど敎線を伸ばした。
このため本門法華宗宗門と少なからず軋轢が起こり、1869年には活動の拠点としていた本能寺から退去、宥清寺に赴いて本拠とした。

その後清風(日扇)の遷化後、在家中心主義と僧侶との位置づけの問題・現世利益の強調など様々な論争を経て、離脱や分派が相次ぐ(分派と影響)。
第2次世界大戦後の1947年(昭和22年)本門法華宗から独立して本門佛立宗となった。

本山
宥清寺(京都府)
由緒寺院として誕生寺(京都市)、長松寺(京都市)、佛立寺(大津市)、義天寺(守口市)がある。

教義
在家仏教主義
本来の本門佛立講は、日蓮の説いた教義の布教や実践・化儀を在家の信者が自ら率先して行うことを説いた。
もっとも指導教師としての僧侶は存在するものの、活動の主体は在家の信者と信者が集まって結成する講であり、殊に教えの導き手たる講親と弟子の結びつきは強調されている。
その後、僧侶が活動において指導・監督する度合いは強くなっていたが、今日でも在家の講の役割は大きいものになっている。

現世利益と他宗攻撃
布教にあたっては正信の証として現世利益を強調することが強く、加えて他宗・他宗教に対する批判も激しかった。
入信に当たっては他宗・他宗教のお守りや札・像を破却するという、いわゆる謗法払いも佛立講が最初に行ったものであり、これらの布教方法は明治初年に大津法難を初めとする圧迫を生む一因となった。

御教歌
万人に、誰にでも分かりやすく御仏の教えを広めようと、御教歌と呼ばれる仏教の教義を和歌へ盛り込んだものなど、その教えは現代においても非常に分かりやすい。

ちなみに長松清風は、書画においては江戸末期の三筆と言われたり、当時の知識層などが掲載された平安人物誌、西京人物誌にその名が掲載されたり明治天皇の和歌の教師であった高崎正風が清風の詠んだ歌を優れた歌として明治天皇に紹介し、明治天皇から清風の歌を非常に賞賛されていることを知らせる使者が清風の元に使わされており、明治天皇以外にも三条実美などの公家にも清風の短冊を所望する声が多かったという。
江戸末期から明治を代表する優れた文化人とも言える。

御教歌の例

知恵ありて 仏になれぬ 学者かな 信の一字で 無智は成仏

衣着て 頭まろめて 人だます 寺住みの者 僧と思うな

現証の 利益も見ずに おろかにも 法の邪正を あげつらうかな

など
分派と影響
清風入滅の後、講の運営に対する僧侶の関与や現世利益の強調・本門法華宗との関係のあり方など多くの論争を生み、その中から大日本獅子吼会や日蓮主義佛立講などの分派を生んでいった。

また、在家主導の組織運営・現世利益の強調・他宗攻撃などのスタンスは、その後の法華系の新宗教に広く影響を与え、佛立講から霊友会へと入信して妙智会教団を創設した宮本ミツの様な遍歴を重ねるものもいた。
また、霊友会の小谷喜美は佛立講と直接の関わりがないものの、御教歌を久保継成に聞かせていたと言われている。

沿革
1817年(文化14年)に長松清風は京都で生まれる。

1849年(嘉永2年)に長松清風は本門法華宗の隆泉寺(兵庫県南あわじ市津井)で出家する。
師僧は日耀上人。
得度名は無貪。

1857年(安政4年)に本門法華宗の内部に前身の本門佛立講を開く。

1869年(明治2年)に本門法華宗から宥清寺(京都府)を譲り受ける。

1890年(明治23年)に長松清風は入滅する。

1899年(明治32年)に本門法華宗は長松清風に対し、日扇上人の号を贈る。

1912年(明治45年)に本門法華宗は長松清風に対し、日扇大僧正の位を贈る。

1947年(昭和22年)に本門法華宗から独立し、本門佛立宗と公称する。

[English Translation]