泰範 (Taihan)
泰範(たいはん、宝亀9年(778年) - ?)は、平安時代前期の真言宗の僧。
出自については不明であるが、近江の人と言われる。
奈良元興寺で出家した後、最澄に師事した。
810年(弘仁元年)に最澄と共に比叡山に住持仏法の三章を作り寺観を定める。
弘仁3年6月最澄の病気により比叡山総別当に任じられるが、山内の紛争(泰範は自身の不都合により衆僧に迷惑をかけた」という理由で最澄に休暇を願い出ている)により近江国髙島に隠遁した。
最澄は泰範に共に空海のもとで金剛界の灌頂を受けようと2度にわたり説得するも断っている(このため最澄は泰範以外の弟子らと812年(弘仁3年)に金剛界灌頂を受けている)。
同年12月14日、泰範は高雄山寺(後の神護寺)で空海に胎蔵界灌頂を最澄らと共に受け、これ以後空海に師事した。
813年(弘仁4年)3月6日には泰範は金剛界灌頂を受ける。
この後、彼を愛弟子として、また後継者として目していた最澄は再三比叡山に戻るよう促すも、泰範が比叡山に戻ることはなかった。
最後は空海が泰範の手紙を代筆して最澄に送ったといわれる。
この泰範の問題、また最澄の密教観などから、最澄と空海は決別するに至った。
しかしながら最澄は最後まで泰範が比叡山に戻ることをあきらめていなかったといわれる。
泰範は弘仁7年乙訓寺に仮住まいし、空海が高野山を開創するにあたっては空海の弟子実恵(じちえ)とともに奔走、登山して草庵を構えた。
837年(承和 (日本)4年)、当時60歳として、僧綱牒に東寺定額僧として泰範の名が見えるが、それ以降の消息については不明である。
空海門下の十大弟子、また四哲の一人とされるが、履歴が不明な事から、しばしば最澄の弟子・光定と同一視される向きもあるが、これは誤りといわれる。