満済 (Mansai (Manzei))
満済(まんさい・まんぜい、天授 (日本)4年 / 永和 (日本)4年(1378年) - 永享7年6月13日 (旧暦)(1435年7月8日))は、南北朝時代 (日本)から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。
法身院(ほっしんいん)准后とも呼ばれる。
醍醐寺中興の祖として、桃山時代の義演准后と並ぶ。
父は従一位大納言今小路師冬、母は聖護院房官法印源意の娘で室町幕府3代将軍足利義満の室日野業子に仕えた白川殿。
生家の今小路家は関白二条兼基の子二条良冬を始祖とし、満済は兼基の四世孫にあたる。
足利義満の猶子となり、三宝院賢俊に入室し、報恩院隆源の下で得度した。
三宝院25世門跡となり、応永2年(1395年)から永享6年(1434年)の間醍醐寺第74代座主を務め、以後、三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねる例となった。
その間東寺長者・四天王寺別当などをも兼任し、応永16年(1409年)大僧正の位に上る。
正長元年(1428年)には三宝院門跡では初めて准三后(准三宮とも。
太皇太后・皇太后・皇后に準じる位=准后(じゅごう))の宣旨を蒙った。
義満とその子である4代将軍足利義持・6代将軍足利義教の信任が厚く、内政・外交などの幕政に深く関与し、黒衣の宰相と称された。
くじ引き将軍義教を登場させたのは満済の功によるところが大きく、恐怖政治を行った義教も、満済の建言には多く従ったという。
幕政の中枢にありながら情勢を冷静に判断し、人情に厚い満済の態度は、同時代人から「天下の義者」(伏見宮貞成親王『看聞日記』)と賞賛された。
満済が具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいたものが『満済准后日記』(『法身院准后記』)と呼ばれ、応永18年(1411年)から死去の年までの記事があり、自筆本も伝存する。
室町殿護持僧として祈祷だけでなく、当時の政治情勢が克明に記録してあり、室町中期の極めて重要な史料となっている。