空也 (Kuya (Koya))
空也(くうや・こうや、延喜3年(903年) - 天禄3年9月11日 (旧暦)(972年10月20日))は平安中期の僧である。
阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称され、民間における浄土教の祖とも評価される。
尾張国の国分寺(尾張国分寺)で出家。
若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道・橋・寺などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。
938年には京都で念仏を勧める。
948年には比叡山で座主延昌のもとに受戒したが、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に三論宗との関わりが強いという説もある。
951年、十一面観音像ほか諸像を造立(六波羅蜜寺に現存)。
また950年より金字大般若経書写を行い、963年には鴨川 (淀川水系)の岸にて大々的に供養会を修する。
これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深める。
東山西光寺(のちの六波羅蜜寺)で死去、70歳。
門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍にも大きな影響を与えた。
踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。
源為憲の『空也誄』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』によれば、空也にはすでに生存中から皇室の出である(醍醐天皇の御落胤)という説があったが,みずからは父母のことを語ることはなかったという。