精進料理 (Shojin ryori (Vegetarian dishes))
ここでは、仏教から成立した精進料理と、日本料理の中にある和食の一分野である精進料理について紹介する。
精進料理(しょうじんりょうり)とは、仏教では僧は戒律五戒で殺生が禁じられており、大乗仏教で肉食も禁止されたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理したベジタリアン料理である。
概要
インドの初期仏教においては、部派仏教の律による十種肉禁を除いた三種の浄肉(見聞疑の三肉とも。
この場合は僧侶が、殺された現場を見なかった動物の肉・僧侶本人のために殺されたと聞かなかった動物の肉・前記二つの疑いがない動物の肉)であれば食べることができ、釈迦も乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受けて大悟したなど、乳製品も禁止されていなかった。
現在でも、タイ王国、ミャンマー、カンボジア、ラオスといった上座部仏教圏においては、三種の浄肉を僧侶も口にする事が認められているため、菜食を基本とした精進料理は発達していない(精進料理という概念そのものは存在する)。
これに対して大乗仏教では、後に肉食そのものが禁止されたため、中国から日本までの仏教文化圏では菜食料理が発達した。
しかし、中華人民共和国やチベットなどでは卵・乳製品などの使用が認められるケースもあり、はっきりとした基準が定められていない。
(日本では牛乳も「仔牛が本来飲むべきものなので使うのは殺生に当たる」という考えがあったようである)
なお、インドのヒンドゥー教徒やジャイナ教徒にも不殺生として菜食を習慣とする人がいるが、精進料理は基本的に仏教と関係したものに限られる。
特徴
サラダ、すなわち一品の料理として野菜を生のまま食べるという概念が日本の食文化に定着するまでは、野菜・豆類を加熱調理する必要があったため、あく抜きや水煮といった時間と手間のかかる下処理を必要とする事が多いのが、精進料理の特徴の一つである。
これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。
また、精進料理は極めてシンプルな食材を、多くの制約がある中で調理するため、様々な一次・二次加工が施されてきたことも特徴の一つである。
このため、長期保存や食べる者を飽きさせないといった目的も含めて、味噌、醤油、豆腐、ゆば、豆乳、納豆、油揚げなどが生み出された。
こうした技術は、精進料理を必要とする寺院とその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。
また、特に中国に見られるものとしては、いわゆる「もどき」料理と呼ばれるものがある。
これは植物性原料を用いて、動物性の料理に似せたものを作ることである。
例えば、湯葉を加工してハムハムに類似の食品(中国ハム)を作ったり、こんにゃくでイカやエビを形取ったり、シイタケや他のキノコを用いてアワビのスープや炒め物に似せるといったものである。
精進料理は僧侶には必須の食事であり、食事もまた行の一つとして重要視された。
その一方で民間でも、冠婚葬祭やお盆等において、一般家庭や料理屋でも作られるようになった。
料理屋の精進料理は、時としては仏教の食事に関する概念とは対照的な美食を目的として調製することすらある。
中国・台湾・香港・日本・大韓民国等では精進料理を名物とするレストランや料亭、料理屋が数多く存在する。
日本の精進料理
仏教が大陸から流入してきた頃からすでに精進料理は存在したと考えられるが、本格的に発達したのは鎌倉時代以降とされる。
鎌倉時代以降の禅宗の流入は、特に精進料理の発達に寄与した。
平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。
それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが、味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。
味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。
また、豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)といった食材も、精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。
禅宗のうち曹洞宗では、開祖の道元禅師が宋 (王朝)に仏教を学びに渡った時、阿育王山の老典座との出会いから、料理を含めて日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であるという弁道修行の本質を知ったことから、料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。
道元が帰国後書いたのが、『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。
永平寺では料理を支度することが重要な修業の一つであり、庫院(調理場)の責任者である典座は、重役の一員に数えられている。
江戸時代に入ると、明の衰亡に伴い、中国から禅宗の一つである黄檗宗が伝来する。
彼らが持ち込んだ当時の中国式の精進料理(いわゆる素菜)は「普茶料理」と呼ばれる。
一つのテーブル(長方形の座卓)を4人で囲み、一品づつの大皿料理を分け合って食べるというスタイルが非常に珍しがられた。
料理も中国風のものが多く、「雲片」と呼ばれる野菜の炒め煮や、胡麻豆腐、「もどき」料理(山芋の蒲焼など)などがある。
炒めや揚げといった中国風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達であった油脂利用を広めた。
「普茶」とは「茶を普く」という意味であり、煎茶普及の一役を担った。
こうした普茶料理は、精進料理というよりは異国情緒を味わうものとして、黄檗宗の寺院ばかりでなく、料理屋や文化人など、民間でも広く嗜まれた。
特に民間で行われた普茶料理は、長崎の卓袱料理とも影響し合い、テーブルクロスや貴重なガラス製のワイングラスや水差し、洋食器が用いられることもしばしばあった。
江戸時代には『普茶料理抄』といった専門の料理書も著された。
料理そのものは次第に日本化していったが、既存の精進料理にはない鮮やかさやにぎわいがあり、現在の普茶料理は、見た目が鮮やかな独特のものに進化している。
江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり、仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなっていた。
京都大徳寺の精進料理は前者、飛騨高山の精進料理は後者の典型的なケースであり、いずれも分離していった懐石料理の手法を再び取り入れたりして、寺院のそれとはやや異なる風雅なものを生み出している。
精進料理はすでに記してきた通り、日本料理にも影響を与えて成長を促してきた。
永平寺式の精進料理は、室町時代から江戸時代前期にかけて普及した本膳料理に通じる。
また、懐石は精進料理から派生したものである。
現在でこそ、(同音異義の会席料理との混同もあり)豪華なものとなっているが、当初は質素で季節の味を盛り込んだものであり、精進料理の精神が活かされたものであった。
普茶料理は、中国料理の調理法が日本風にアレンジされながらも伝来し、けんちん汁、のっぺい汁、葛粉を利用した煮物や炒め物、揚げ煮といった料理や調理法が普及した。
これら以外としては、点心の風習がある。
これは室町時代に中国から伝わった風習で、軽食として饅頭・羊羹・うどん・素麺などが供された。
当初は公家や武士が中心だったこの風習は、やがて庶民にも広がり、現在の昼食につながっていった。
現在の日本における精進料理
寺院仏閣の中には、参拝者を宿坊に泊め、精進料理を提供して仏門の修行の一端を体験させることをしているところも少なくない。
参詣参篭が信仰の重要な一部となる天台宗・真言宗系の寺院に多い。
また、宿坊においては、料理と宿泊だけの提供もある。
長野県の善光寺には、参拝客を宿泊させる宿坊が数多く存在し、夕食に精進料理を供する事が多い。
出される精進料理は、本膳式の本格的なものから、懐石料理風の現代的なタイプのものまで様々である。
一方、京都の寺院では、特に賓客用の精進料理を料理屋に一任したことが多かったため、寺院よりも周辺の料理屋に高度な精進料理が存在することが多い。
大徳寺の周辺には精進料理専門の老舗の料理屋がある。
これは普茶料理でも同様であり、黄檗宗の総本山である萬福寺周辺には、普茶料理を食べさせる料理屋が多い。
普茶料理には、料理屋で作られる独自のスタイルを止めて懐石風に仕立てた限りなく日本料理に近いタイプのものから、長崎の禅寺で作られる原点に近く、時としては現代の素菜を取り入れた中国料理に限りなく近いもの(長崎の禅寺の檀家には華僑が多く、お盆などでは中国や台湾からの来訪者も多いためとも考えられる)まで幅広く存在する。