臨済宗 (Rinzai Zen Buddhism)

それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。
それゆえに正しい禅師を選ぶことが肝心とされる。
それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。
しかしながら、悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。
師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。
悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。
そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。
芸術以外にも、茶道や華道を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。
それは知的な理解ではない。

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国禅五家七宗(ごけしちしゅう)(臨済、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗)のひとつで、唐の臨済義玄(?-867年)を宗祖とする。
彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
公案に参究することにより見性しようとする看話禅(かんなぜん)で、ただ座禅する曹洞宗の黙照禅とはこの点が異なる。

中国における臨済宗
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。
臨済は黄檗希運の弟子であり、河北省の地を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府藩鎮の王常侍を支持基盤として宗勢を伸張したが、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。
この時期の中心人物は、風穴延昭である。

臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋代であり、石霜楚円の門下より、ともに江西省を出自とする、黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。

南宋代になると、楊岐派に属する圜悟克勤の弟子の大慧宗杲が、浙江省を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。

日本における臨済宗
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだ十大弟子(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。
その後、禅宗の最高峰を極めた臨済宗は、南宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。
日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。
師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。
釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。
同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。
その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。

伝統
法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。
師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。
師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。
しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。
それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。
師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。
新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。
師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。
いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。

悟り
一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。
禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。
このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。
しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。
坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。
悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。

公案体系
宋代以降公案体系がまとめられ、擬似的かもしれないが更に多くの悟りを起こすことを可能にした。
公案とは、主に師と弟子の間の会話で構成され、弟子が悟りを得る瞬間の事実を伝える話が多い。
また公案とは論理的、知的な理解を受け付ける事が出来ない、論理を超えた話であり、考えることではなく、公案になり切ることを通してのみ知ることができる。
これらの公案を弟子を導く手順としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案により構成される。
公案体系は師の家風によって異なる。

初期に与えられる公案の例:
「犬に仏性はありますか?」「無(む)」
この背景には、仏教では誰でも知っている「全ての生き物は仏性を持っている」という知識がある。

「片手の拍手の音」
弟子は片手でする拍手の音を聞いてそれを師匠に示さなければならない。
知的な理解では片手では拍手はできず音はしない。

宗派
建仁寺派
1202年(建仁2年)、中国・南宋に渡って帰国した栄西により始まる。
栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えた。

大本山は、京都の建仁寺。
建仁寺は日本最古の禅寺である。

東福寺派
1236年、宋に渡り帰国した円爾(弁円)により京都で始まる。

本山は、京都の東福寺。

戦国時代、毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊はこの宗派。

建長寺派
1253年、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が中国・南宋から招いた蘭渓道隆により始まる。

本山は、蘭渓道隆が開山した鎌倉の建長寺。
建長寺は日本で初めて純粋な禅の道場が開かれた日本で最初の禅寺で、一時は1000人以上の禅僧が修行をしていた。

円覚寺派
1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉で始まる。

本山は、鎌倉の円覚寺。
円覚寺は、無学祖元から高峰顕日・夢窓疎石へと受け継がれ日本の禅の中心となった時期もある。

明治以降の有名な禅師は、今北洪川・釈宗演・朝比奈宗源。
禅を西洋に紹介した鈴木大拙は今北と釈宗演の両師の元に在家の居士として参禅した。
また夏目漱石も釈宗演に参じており、その経験は「門」に描かれている。

南禅寺派
1291年、無関普門により始まる。

本山は、京都の南禅寺。

国泰寺派
1300年頃、慈雲妙意により始まる。

総本山は、明治時代に山岡鉄舟の尽力で再興した富山県高岡市にある国泰寺 (高岡市)。
鉄舟開基の谷中の全生庵も国泰寺派の名刹である。

大徳寺派
1315年、宗峰妙超により始まる。

本山は、京都の大徳寺。
室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興した。

向嶽寺派
1327年、抜隊得勝により始まる。

本山は、山梨県甲州市の向嶽寺。

妙心寺派
1337年、関山慧玄により始まる。

本山は、京都の妙心寺。
塔頭寺院には、桂春院・春光院・退蔵院などがある。

末寺3,400余ヵ寺を持つ臨済宗最大の宗派。

天龍寺派
1339年、夢窓疎石により始まる。

本山は、京都嵐山の天龍寺。

永源寺派
1361年 寂室元光により始まる。

本山は、滋賀県東近江市にある永源寺 (東近江市)。

末寺は、滋賀県を中心に約150ヶ寺。

明治13年(1880年)までは東福寺派に属した。

方広寺派
1384年、無文元選により始まる。

本山は、浜松市北区引佐町の方広寺 (浜松市)。

末寺は、静岡県を中心に約170ヶ寺。

明治37年(1904年)までは南禅寺派に属した。

相国寺派
1392年、夢窓疎石により始まる。

本山は、足利義満により建立された京都の相国寺。

末寺は、全国に約100ヶ寺。
金閣寺・銀閣寺が属する。

佛通寺派
1397年、愚中周及により始まる。

本山は、広島県三原市の佛通寺
末寺は、広島県内を中心に約50ヶ寺。

明治38年(1905年)までは天竜寺派に属した。

関係教育機関
花園大学
正眼短期大学
花園中学校・高等学校

[English Translation]