良源 (Ryogen)

良源(りょうげん、延喜12年(912年) - 永観3年1月3日 (旧暦)(985年1月31日))は、平安時代の天台宗の僧。
諡号は慈恵大師(じえだいし)。
一般には通称の元三大師(がんさんだいし)の名で知られる。
比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。

良源は、第18代天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の位)であり、実在の人物であるが、中世以来、独特の信仰を集め、21世紀に至るまで「厄除け大師」などとして、民間の信仰を集めている。

良源は延喜12年(912年)、近江国浅井郡虎姫(現・滋賀県東浅井郡虎姫町)に、地元の豪族・木津(こづ)氏の子として生まれた。
幼名は観音丸(日吉丸とも)といった。
12歳の時(15歳ともいう)、比叡山に上り、仏門に入った。
良源は、最澄(伝教大師)の直系の弟子ではなく、身分も高くはなかったが、南都(奈良)の旧仏教寺院の高僧と法論を行って論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなどして徐々に頭角を現わし、康保3年(966年)には天台宗最高の地位である天台座主に上り詰めた。
延暦寺には承平 (日本)5年(935年)に大規模な火災があり、根本中堂をはじめとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。
良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。
また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎をつくった。
天禄元年(970年)には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。
良源は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、さまざまな功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。
弟子も多く、中でも『往生要集』の著者・源信_(僧侶)(恵信僧都)は著名である。
朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は慈恵大師であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。
比叡山横川(よかわ)にあった良源の住房・定心房跡には四季講堂(春夏秋冬に法華経の講義を行ったことからこの名がある)が建ち、良源像を祀ることから「元三大師堂」とも呼ばれている。

慈恵大師・良源には「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」など、さまざまな別称があり、広い信仰を集めている。
また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている。

「慈恵大師像」と呼ばれる良源の肖像彫刻や画像は鎌倉時代頃の作品が比叡山内の多くの堂や寺院に所在するほか、天台系の寺院に多く伝えられる。
これらの像はいずれも礼拝像として定型化した表現を示しており、やや吊り目で厳しい表情で、手には数珠と独鈷杵(とっこしょ、仏具の一種)を持つのが特色である。

良源にまつわる伝説

角大師-2本の角をもち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表わした絵である。
伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。
角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られた。

豆大師-紙に33体の豆粒のような大師像を表わした絵である。
慈恵大師(良源)は観音の化身とも言われており、観音はあらゆる衆生を救うために33の姿に化身するという「法華経」の説に基づいて33体の大師像を表わしたものである。

慈恵大師(良源)像の古例

延暦寺(本覚院)像-文永2年(1265年)

延暦寺(青龍寺 (大津市坂本))像-弘安9年(1286年)

滋賀・求法寺像-文永4年(1267年)

滋賀・金剛輪寺像-弘安9年(1286年)

滋賀・金剛輪寺像-正応元年(1288年)

京都・曼殊院像-文永5年(1268年)

慈恵大師(良源)を祀るおもな寺院

群馬県前橋市・龍蔵寺 (前橋市)(青柳大師) 大祭:1月3日

栃木県佐野市・惣宗寺(佐野厄除け大師) 大祭:2月11日

東京都昭島市・本覚院(拝島大師)

東京都調布市・深大寺 大祭:3月3日

東京都台東区・輪王寺(両大師)

埼玉県川越市・喜多院(川越大師)

京都府京都市・廬山天台講寺(廬山寺)

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