証如 (Shonyo)
証如(しょうにょ、1516年12月13日(永正13年11月20日 (旧暦)) - 1554年9月9日(天文 (元号)23年8月13日 (旧暦)))は、戦国時代_(日本)の浄土真宗の僧。
本願寺第10世。
諱は光教。
蓮如の曾孫で、円如(父実如からの継職前に死去したため本願寺歴代に入らない)の子。
母は蓮如6男蓮淳の娘。
1525年、祖父実如の死去により、10歳で本願寺第10代門主となり、実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける。
1527年には、当時の本願寺教団と中央権力との親睦を深め安泰を図るため、摂関家に接近して関白九条尚経の猶子となっている。
1531年には本願寺教団内部で対立(後の山科本願寺焼討事件まで含めて享禄・天文の乱と呼ぶ)が起こるが、証如はこれを抑えて法主の指導力強化に努めた。
翌1532年年には、管領細川晴元の要請を受けて門徒を動員し、三好元長を敗死に追いやったが、晴元はこれによってかえって本願寺の実力を恐れ、京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結んで、当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺を攻撃し、これを焼き討ちにした(天文法華の乱)。
山科本願寺を追われた証如は、居所を大阪の石山御坊に移し、石山本願寺を新たな教団の本拠地とした。
その後は晴元の養女如春尼(左大臣三条公頼の末娘。長姉は晴元に、次姉は武田信玄に嫁ぐ)を長男顕如の妻に迎えて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めた。
また、天文法華の乱を教訓として、各地の一向一揆に対してもみだりに乱を起こさないように命じている。
1549年には後奈良天皇より『三十六人集』を下賜される。
これは、後に息子・顕如の時代に石山合戦の和議に尽くした前関白近衛前久に贈ろうとしたものの、「天下の宝物をみだりに遣り取りすべきでない」として辞退したという代物で現在も西本願寺に所蔵されている国宝である。
また、証如の代に本願寺は、加賀一向一揆の調停という形で北陸地方の門徒集団への介入を深め、1546年には金沢市に御坊を築いて同地方における門徒の統制を強化したが、これは朝倉氏との対立もあって、証如の時代には必ずしも十分に達成されなかった。
1554年に39歳の若さで死去し、後を12歳の長男の顕如が継いだ。