豊安 (Buan)
豊安(ぶあん、天平宝字8年(764年)頃? - 承和 (日本)7年9月13日 (旧暦)(840年10月11日))は、平安時代初期の律宗の僧。
三河国の出身。
唐招提寺に入り、鑑真の弟子である如宝に師事して戒律を修学した。
815年(弘仁6年)師の如宝が没した後は唐招提寺の第5世を継ぎ、翌816年(弘仁7年)律師に任じられた。
平城天皇らに菩薩戒を授戒し、827年(天長4年)には少僧都に昇任した。
830年(天長7年)には律宗を代表して淳和天皇に「戒律伝来宗旨問答」3巻を撰呈している。
最澄が延暦寺に戒壇設置を求めた際に元興寺の護命とともに反対論を唱えた。
しかし、838年(承和5年)に延暦寺に四王院が創建された際には導師を務めている。
835年(承和2年)には大僧都まで至った。
一説によれば77歳で没したとされ、その後僧正の位が追贈された。