貞暁 (Jogyo)

貞暁(じょうぎょう/ていぎょう、文治2年2月26日 (旧暦)(1186年3月18日) - 寛喜3年2月22日 (旧暦)(1231年3月27日) は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。
源頼朝の三男(庶子)。
母は伊達氏の祖と言われる常陸入道念西(藤原時長、伊達朝宗)の娘・大進局。
通称を鎌倉法印といった。

生涯
母・大進局は鎌倉幕府に出仕する侍女であったが、頼朝の寵愛を受け懐妊する。
しかし頼朝の正室・北条政子がこれに気づいたため、その怒りを畏れた頼朝によって遠ざけられ、家臣の長門景遠の宅にて男児を出産する。
政子の嫉妬を恐れて出産の儀式は省略され、景遠は母子を匿った事を知った政子の勘気を蒙り、子を連れて逃げ深沢の辺りに隠居した。
その後も政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられる。
建久3年(1192年)5月19日、7歳の時に出家のため上洛する。
頼朝は出発の夜、密かに息子の元を訪れ、刀を渡している。

仁和寺に入って法名を「能寛」と名乗り、更に修行を重ねた後、法名を貞暁と改め、高野山に登ってより一層俗界から遠ざかった。
これ以降、源氏一族が権力闘争の中で次々に命を落とす中で、世間と隔絶した中で一人修行に励み、人々の尊崇を集めた。

その晩年には遂に政子も貞暁に帰依し、彼に源氏一族の菩提を弔わせるべく援助・出資を行なった。
これを受けて貞暁は、高野山の経智坊に丈六堂という阿弥陀堂を建立、この中に安置した阿弥陀如来座像の胎内に父・頼朝の遺髪を納めて供養したほか、異母弟・三代将軍源実朝に対しても五輪塔を設営して追善を行なっている。

一説によると、実朝の死後その野心を政子に疑われ、四代将軍就任を打診されたが、片眼をえぐり出してこれを拒否したと伝えられる。
政子は貞暁の潔さに落涙し、二度と彼を疑うことがなかったという。

寛喜3年(1231年)、高野山にて46歳で死去(自害したという説もある)。
これにより、頼朝の男系子孫は断絶した(女系子孫も3年後の竹御所死去により途絶える)。
なお、『』は貞暁と能寛を別人としているが、これは誤りである。

[English Translation]