道昌 (Dosho)
道昌(どうしょう、延暦17年3月8日 (旧暦)(798年4月2日) - 貞観 (日本)17年2月9日 (旧暦)(875年3月20日))は、平安時代前期の僧。
俗姓は秦氏。
讃岐国香川郡の出身。
14歳で奈良元興寺の明澄に三論教学を学んだ。
818年(弘仁9年)東大寺で受戒した後、828年(天長5年)神護寺(あるいは東寺)で空海に真言密教を学び灌頂を受けた。
以後、興福寺維摩会など様々な法会の講師や導師をつとめ、承和 (日本)年間(834年-848年)には大堰川の堤防を改築するなど行基の再来と称された。
またこの間、836年(承和3年)には広隆寺別当・隆城寺別当を歴任している。
864年(貞観6年)権律師に任じられ4年後に律師となり、874年(貞観16年)には少僧都までいたった。
さらに同じ年嵯峨葛井寺(ふじいでら)を再興して法輪寺 (京都市西京区)と改め、中興開山となった。
830年(天長7年)の仏名会に参列した道昌は淳和天皇に召された。
天皇より「君主の殺生と臣下の殺生のどちらが罪が重いのか?」と尋ねた。
道昌は「君主は己の贅沢のために殺生を行うためにその罪は重いが、臣下の中には生活のためにやむを得ず殺生を行う者もいる。
なのに君主はそれすら禁止している」と答えた。
天皇はこれを聞いて倹約を行うとともに贅沢のための殺生を戒める一方で、山沢の禁を緩めて貧しい者が狩漁によって食を得ることを許したという(『日本三代実録』『元亨釈書』)。
後に道昌は淳和天皇の皇子で承和の変で廃太子となった恒貞親王が出家した際に弟子としている。