阿弥陀信仰 (Amida Worship)
阿弥陀信仰(あみだしんこう)とは、阿弥陀如来を礼拝することで極楽往生できると説く、他力本願を根本とする浄土思想。
浄土系仏教の教えのひとつであるが、宗派を超越した包括的な思想であるために民間信仰とも言える。
『仏説無量寿経』に、阿弥陀如来は法蔵菩薩時代に「世自在王如来」の教えを受け、ほとんど無限とも言える間、思惟して四十八願を誓い、その後、修行を積み誓願を完成させ仏となったと説かれる。
阿弥陀如来は多くの仏教宗派で信仰され、阿弥陀信仰はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つが、ともすれば偶像崇拝・(阿弥陀如来のみを尊ぶ)一神教的思想に陥りやすい側面もある。
日本には奈良時代に伝わり、先祖敬仰としての阿弥陀信仰が弥勒菩薩信仰と混交してなされていた。
その後末法思想の流れを受け、阿弥陀如来に帰依することで極楽浄土への救済を求める阿弥陀浄土信仰とも言える念仏思想を伴うものに形を変え、平安時代中期に空也、源信_(僧侶)らの民間布教によって爆発的に流行した。
この浄土教をルーツに、平安末期の良忍の融通念仏宗や、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗などの鎌倉新仏教が派生した。
歴史
原形
根本は2世紀頃のインドで始まったと考えられている。
現代に連なる、体を成したものとしての阿弥陀信仰は、大乗仏教の菩薩思想と関連して易行としての称名念仏を説く浄土教が中国で成立してきたのが最初である。
菩薩の十地(悟りを得るまで菩薩が修行すべき十の階位)を説くうち、易行の法として「称名念仏」が唱えられるようになった。
これに対して既存の大乗仏教からは批判がなされたが、浄土教は念仏結社をつくるなど実践で対処した。
阿弥陀浄土信仰の始まり
日本の阿弥陀浄土信仰の起源は、最後の遣唐使でもある天台宗の円仁(794年 - 864年)が唐から帰朝し、修行元の五台山で行われていた法照流の念仏を延暦寺に伝え、常行三昧堂を建てたのが最初といえる。
ここで行われる修行は、90日間休みなく称名念仏を唱えながら、心に阿弥陀如来のことを思い、念じるものであった。
「阿弥陀如来のことを思う」というのは事観の念仏である「観相念仏」であり、これがまず下級貴族に受け容れられた。
というのも、当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占しており、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を心静かに待つしかなく、
この生活態度が仏の姿を憧憬の念を持って思い敬う観相念仏の情感に適合していたと考えられるからである。
この時代の文人で、中級貴族でもあった慶滋保胤は念仏結社「勧学会」を興し、浄土教信仰の実践に入った。
慶滋保胤は阿弥陀信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集め、『日本往生極楽記』を著した。
その後にも『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)などが書かれた。
この様に具体的な実例をもって往生を説く方法は、庶民への浄土教普及にとっても非常に有効であった。
そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従って、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから浄土教を信仰し始めたと考えられる。
空也と源信の民間布教
平安時代の寺院は国の管理下にあり、(官)僧は言わば公務員であった。
官僧は制約も多く、とにかく国家の仕事に専念するしかなかった。
そんな中、庶民の救済もできないような状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に活動する者が現れた。
そのような僧を「私度僧」または「遁世僧」と言うが、その中のひとりに、後に「市聖」と呼ばれるようになる空也(903年-972年)がいた。
空也は諸国を遊行しながら精力的に民間布教を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れた。
社会事業にも従事しながら阿弥陀信仰と念仏の普及に限りなく尽力した。
また、空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。
更なる浄土教の発展を語る上で、良源(912年-985年)の弟子、源信(942年-1017年)が985年に著した『往生要集』は重要な意味を持つ。
『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える非常に実践的でわかりやすいでもので、広く庶民にも読まれた。
著された翌年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。
結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
源信は天台宗の僧であったが世俗化しつつあった延暦寺を離れ、独自に修行を行っていた。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、市井の人々の救済を主目的とする大衆仏教へと移り変わっていった。
末法思想と浄土信仰
末法思想とは、釈迦入滅後千年を正法、次の千年を像法とし、計二千年を経過した次の一万年を末法とする終末論とも言える思想で、中国から伝播した。
その時代には仏の法力が及ばず、世界が破滅すると考えられ、貴族も庶民もその到来に怯えた。
更に末法では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、その救いを阿弥陀如来に求める浄土信仰が盛んとなった。
最澄(767年-822年)に仮託される『末法灯明記』によれば、末法第一年に当たるとされたのは平安末期の1052年(永承7年)で、その年に関白・藤原頼道が京都宇治の平等院に阿弥陀信仰のシンボルとも言える阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。
阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に書かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。
「極楽が信じられないなら宇治の御堂を敬え」と当時の謡曲でも謡われた。
この頃には、阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。
阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。
平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。
鎌倉時代以降の阿弥陀信仰
鎌倉時代。
貴族政権から武家政権へと移り変わる新しい時代の幕開けで、日本史上、最も仏教が繁栄した時代の到来である。
政治・経済・社会の劇的な変化と発展。
そういった新しい時代の気運に連動して、仏教も飛躍的な成長を遂げていった。
浄土宗
開祖・法然(法然、1133年-1212年)は1145年に比叡山に入った。
1175年 に 善導(中国浄土教)の観無量寿経疏により回心して「専修念仏」に進み、浄土宗を開宗した。
法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた観相念仏を否定し、称名念仏のみを認めたものである。
「南無阿弥陀仏」と数多く唱えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
1198年には『選択本願念仏集(選択集)』を脱稿。
浄土真宗
開祖・親鸞(1173年-1262年)は1181年に比叡山に入り、1201年には法然に弟子入り。
後に関東を中心に20年に渡る伝導生活を送り、念仏の教えをさらに徹底させた。
正しい信心を持つことで、いかなる者でも浄土往生が約束される正定聚の地位に着くことができると説いた。
1247年に完成させた主著『顕浄土真実教行証文類』では「横超断四流」を提唱している。
横超とは即時に往生が決まることで、四流とは即ち「生」「病」「老」「死」であり、この四流を断ち切ることで初めて浄土に往生できるとした。
また流罪による僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた(もはや僧では無い為、戒律は重要視せず、肉食・妻帯を断行した)。
浄土真宗として教団の形になったのは没後。
時宗
開祖・一遍(1239年-1289年)は1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。
その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮大社で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。
その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。
阿弥陀仏の絶対性は「信」すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。
晩年には踊念仏を始める。
一向宗の隆盛
一向宗とは、親鸞の娘、覚信尼の孫である覚如(1270年-1351年)が礎を築き、8世の蓮如(1415年-1499年)が再興した浄土真宗系の本願寺教団の通名である。
門徒と呼ばれる一向宗徒は阿弥陀・念仏信仰の下、室町時代には強大な信徒集団を形成した。
「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。
まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と唱え続けるその姿から、専修念仏の一派に括られがちであるが、実際は修験道や密教などの思想も複雑に混合し、呪術・祈祷などの民間信仰を行う信徒もいたため、必ずしも専修とは言えなかった。
一向宗に傾倒する一般庶民達は、専修念仏の宗教的な思想よりも、阿弥陀如来や念仏の持つ法力を求めていたとも考えられる。
一向宗徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。
中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。
このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択したが、織田信長などは徹底的に弾圧した。
信長によって石山本願寺が落とされて以降本願寺教団は没落し、分裂した。
ところで、浄土真宗と一向宗は必ずしも同一ではない。
例えば蓮如は、信徒に対して「一向宗」を名乗ることを禁じていたが、そのような本願寺の思惑とは裏腹に、実態として一向宗徒は本願寺教団に深く交わっていたと考えられている。