神社合祀 (Shrine Merger)
神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。
神社整理ともいう。
複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。
主に明治時代末期に行われたものをさす。
前近代の神社合祀
岡山藩の神社合祀
水戸藩の神社合祀
津和野藩の神社合祀
明治初年の神社合祀
明治末期の神社合祀
目的
神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせることにあった。
これにより神社の尊厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させようとした。
また、神社は「国家の宗祀」であるという国家原則に従った目的もあった。
地方公共団体から社格以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもあった。
この政策は内務省 (日本)神社局が主導したが、同省地方局の関与もあったらしい。
というのも、地方局は合祀の目的の一つである地方公共団体からの府県社以下神社への公費供進を認めるのを地方公共団体にさらなる財政負担を求めるものとして消極的だった。
だが、それを認める代わりに地方自治政策の一環としての神社中心説を神社合祀政策に盛り込んだのであった。
神社中心説とは地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだという考えのこと。
これにより合祀政策に一町村一神社の基準が当てはめられることとなった。
神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたのである。
合祀政策の経緯
神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年(大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。
特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。
和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。
しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなった。
京都府では1割程度ですんだ。
この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。
当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らなかった。
ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。
合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた。
合祀反対運動
氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできなかった。
合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。
とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で変形菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示すことによって次第に収束した。
帝国議会での答弁などを通して、1910年(明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。
しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きかった。
多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。
合祀された神社の復祀
一方、一度合祀されたもののちに復祀された神社も少なくなかった。
名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そういったところでは復祀が行なわれ易かった。
全般的にみて、合祀以前の崇敬基盤がその後も維持されたところでは復祀が行なわれ易かった。
一方、行政区画の統廃合や状況の変化で崇敬基盤となった共同体が消滅や変化をした場合は復祀されない傾向にあった。