出口王仁三郎 (DEGUCHI Onisaburo)
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう)、1871年(明治4年)? - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の教義を整備した実質上の教祖。
大本では聖師と呼ばれている。
一部当時の新聞・雑誌等が「王仁さぶろう」と書き立てて揶揄した事をきっかけに誤読が広まっているが、正確には「おにさぶろう」である。
幼少
一般には1871年旧7月12日、現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に、農業を営む上田家の長男上田 喜三郎(うえだ きさぶろう)として生まれたが、前年の1870年誕生説もある。
祖母・上田宇能は、『日本言霊学』で有名だった中村孝道の妹にあたり、伝承や言霊学、迷信を初めとした知恵を持っていた。
喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった虚弱体質児であったため、家でこの祖母にあれこれと教わり、おばあちゃん子として育った。
また、近所ではその聡明さから「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間の意)、神童と言われていた。
1883年、時代の混乱期に13歳にして集落の小学校の代用教員として奉職するも、正式な小学校教員が赴任してきた為、2年あまりで辞め農業に戻る。
1893年(23歳)の頃から園部の牧場で働きながら牧畜の下積み生活をし、1896年(26歳)で独立し穴太精乳館を開業。
搾乳・牛乳販売業を始める。
宗教家へ
やがて、宗教や霊能に関心を持つようになり、1898年3月1日、松岡芙蓉(または「天狗」と名乗ったとも)と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の霊山・高熊山に一週間の霊的修業をする。
(『霊界物語』第1巻、第37巻、『本教創世記』参照)。
その年の10月に一度、大本の開祖・出口なおを京都府綾部市に訪ねている。
翌年の7月に、なおの啓示により招かれて再度綾部に行き教団を改善させ、後に戦前の巨大教団であった「大本」を形づくる。
1900年なおの末娘・出口澄と養子結婚し 入り婿となり、名前を自ら出口 王仁三郎に改める。
1906年(36歳)、「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科二年に入学。
翌年卒業し、建勲神社に短期間奉職する。
その後、亀山城 (丹波国)を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地にし、大正日日新聞を買収して言論活動に進出するなど教勢を伸ばすが、1921年、大本事件第一次大本事件で検挙。
同年より『霊界物語』の口述と出版を始める。
『霊界物語』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、様々なたとえ話を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている。
1923年には国際語エスペラントの教団活動への導入を試みる。
出国、そして帰国
1924年2月、第一次大本弾圧事件による責付出獄中に大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動するが、同年6月パインタラにて張作霖の策謀により落命寸前の危機となる(パインタラの法難)も、王仁三郎とともに活動した植芝盛平をはじめ日本人6人は無事難を逃れ、翌月帰国する。
以後、新宗教の教団、「昭和神聖会」を結成するなど、幅広く様々な活動を展開するが、1935年大本事件第二次大本事件により再び投獄された。
1942年に保釈出所し、1946年2月、教団活動を「愛善苑」として新発足させている。
晩年
戦後は綾部において、陶器を作ったり、絵を描いたり芸術に没頭した、。
1948年1月19日、その生涯を閉じた。
享年78。
綾部の天王平に埋葬されている。
思想
「霊界」で起きたことは現実でも起きる」
予言
「関東大震災」、「大東亜戦争とその敗戦などを予言したと言われている。
1942年に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と声高に叫んだという。
1944年、「広島は最後にひどい目に会う。広島在住の者は疎開しなさい」と警告したという。
著作
主な著書に『霊界物語』(全81巻83冊)、『道の栞』、『霊の礎』、『本教創世記』、『出口王仁三郎全集』、『道の大本』など多数があり、歌集としては、『花明山』、『彗星』、『故山の夢』、『東の光』、『霧の海』、『愛善の道』などがある。
また、日記的な著作物として『東北日記』、『ふたな日記』、『壬申日記』、『日月日記』などもある。
エピソード
予備校講師の出口汪、「メキキの会」会長出口光は曾孫にあたる。
後年にいわれた出生に纏わる秘話に有栖川宮熾仁親王の御落胤説があり、大元に対する弾圧の背景には大正天皇の皇位継承問題を危うくしかねないこの有栖川御落胤説を封印する目的があったという説もある。
60歳のとき受けた大宅壮一のインタビューにおいて、1日に2、3百首の短歌を詠み、これまで5、60万首詠んだと語ったという。