国意考 (Kokuiko (Thoughts on the Meaning of the Nation))
『国意考』(こくいこう)は、江戸時代の国学者・賀茂真淵の著作。
なお「国意」とは日本の精神を指す。
沿革
『国意考』は、真淵の学問をまとめたいわゆる『五意考』の一つであり、明和元年(1764年)ころに起稿され明和6年(1769年)までには完成したというのが定説である。
荻生徂徠のあとを受けて太宰春台がその著『辯道書』において、特に神道をおとしめて神武天皇から欽明天皇のころまでの日本には、「道」というものがなく、儒教が到来することによって「神道」が成立することになった、という主張を反駁するために『国意考』が書かれた。
内容
古語の研究を歌意考・文意考・語意考などで進め、基礎を大成したうえで古神道の哲学を組成することを真淵は長年意図していたのであるが、自分の老齢を意識して、復古神道の学論を立てる企ては後継者である本居宣長に譲ることにしたということは一般に知られる。
『国意考』は、賀茂真淵が把握していた古神道の意義の一端をあらわすものである。
神道つまり惟神道が、もともと日本古代から伝わる純粋な天地自然の大道であったが、後から伝わった仏教と儒教によって混濁させられた。
国学者の責務は、古典を研究することによってもとの神道の純粋さを取り戻すことである。
『国意考』の主張はその前提に立って、朱子学などを排し日本人本来の生活と精神に戻るべきである、という主張に終始する。
「国意」とはこの日本精神を指し、朱子学のように多角的な方形ではなく滑らかな弧線からなる円である、とも説く。
つまり窮屈よりも緩和、厳しさよりも優しさが勝るのが日本人本来の心なのである、と。
さらに文の終わりころにある「凡て天が下は小さきことはとてもかくても世々すべらぎの伝わり給ふこそよけれ」とか「すべらきのもとの如くつたわり給ふ国」などの言葉で知られるように、天皇の存在が日本にとって自然なこと、よいことであるという主張は、復古神道の学統に引き継がれた。
反響
真淵の死後の明和8年(1771年)に、本居宣長が『直毘霊』で真淵の学説を紹介する際、より激しく「漢意」を排斥したことにより儒家を刺激し、『国意考』そのものが論争の的になった。
天明元年(1781年)に古学派の野村公台が『読国意考』を著したのに対し、国学者・海量が『読国意考にこたえるふみ』で反駁し、さらに文化 (元号)3年(1806年)に同じく国学者・橋本稲彦が『辯読国意考』でこの論争を一応締めくくる。
しかし本居宣長の戦闘的な態度は続き、文政13年(1830年)に沼田順義『国意考辯妄』により、宣長の主張の根源として『国意考』が再度採りあげられ、安政年間に久保季玆の『国意考辯妄贅言』がこれを反駁している。
太平洋戦争中の日本では、「万世一系の国体」を擁護する思想や「尊皇精神」の源流として理解され、利用された書でもある。