神道 (Shinto (Shinto religion))

神道(しんとう、かんながらのみち)とは日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教の宗教である。

概要

神道は太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教である。
日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。

なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典を規範とする。
森羅万象に神 (神道)が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する。
浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。
他宗教と比べて現世主義的であり、性善説的であり、まつられるもの(神)とまつるもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴がみられる。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。

神道は日本国内で約1億600万人に支持されており(文化庁『宗教年鑑』)、約85000の神社が登録されている。

分類

神道は、
皇室神道
皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の、すなわち、天皇家の神道である。

神社神道は、以下に分類することができる。
神社を中心とし、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である。

教派神道(神道十三派)
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。
他の神道とは少し性質が異なる。

古神道
「民間神道・民俗神道」や原始神道・縄文神道・古道(中華文明の原始儒教も同意であるがここでは除く)とも呼ばれ、日本で古くから民間でおこなわれてきたものや、修験などの古神道と習合した密教や仏教、あるいは道教の思想を取り入れた古神道などの信仰行事をいう。
また、明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものとしての復古神道に分類できる。

今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指す。

また、何に重きを置くかによって、以下に分けられる。
社人神道 - 儀礼を中心とする
学派神道 - 教学を中心とする

なお、「国家神道」は、特に、1868年の王政復古 (日本)から第二次世界大戦終結までの日本における、国家の支援のもとにおこなわれた神道を指す名称である。
教派神道の「『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例」であり、第二次世界大戦前は単に「神社」といえば、国家に管理された国家神道のものをさした。
現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはなくなった。
なお、国家神道の語をGHQによる捏造とする謬説がある。

また、次のような分類もされる。

祭り型神道
宮中神道 - 宮中の祭祀
神社神道 - 通常の神社の祭祀
古神道 - 道祖神・田の神・山の神・竈神など
陰陽道系 - 土御門神道・いざなぎ流など
教え型神道
学派神道
復古神道 - 平田篤胤ら
理論神道 - 伊勢神道・唯一神道など
神仏習合系 - 両部神道・山王一実神道など
神儒一致系 - 儒家神道・理学神道など
教派神道
山岳信仰系 - 実行教・御嶽教など
霊示系 - 黒住教・金光教・天理教など
伝統神道系 - 出雲大社教・神道修成派など
新思想系 - 大本・生長の家・白光真宏会・世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神道天行居など

由来と教義

「神道」という言葉は中国の『易経』や『晋書』の中にみえるが、これらは「神(あや)しき道」という意味である。
これは日本の神道観念とは性質が異なるものである。

日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇の条にある「天皇信佛法尊神道」(天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ)である。
このように、外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。

中国では、信仰は「鬼道」、「神道」、「真道」、「聖道」の4段階に進化すると考えられ、仏教は一番進んだ「聖道」にたっしていると信じられていた。
一番下の段階が「鬼道」で、『魏志倭人伝』の中にもこの語が出てくる。
次の段階が「神道」」(「神(あや)しき道」)である。
すなわち、『易経』や『晋書』の中にみえる「神道」(「神(あや)しき道」)という語は、鬼道よりは進んでいるが、まだまだ劣っているという蔑称である。
日本における「神道」は中国道教の「真道」「聖道」といった進化に対して保守的であり、「鬼」が蔑称文字とされても「祈祷」の字を代用するなど、他の宗教の原理主義に近い状態を維持している。

明治20年(1887年)代になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始める。
明治30年(1897年)代には宗教学が本格的に導入され、学問上でも「神道」の語が確立した。

もともと、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。
政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神在随 事擧不為國」だったからであるともいわれている。
そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。
しかし、神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであり、日本が特に珍しい例というわけではない。

実際には仏教公伝の当初から廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もあった。
中世には伊勢神道をはじめとして吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく。
近世後期には、平田篤胤が、キリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想や、アメノミナカヌシを創造神とする単一神教的な観念を展開するなど近代に連なる教理の展開を遂げた。
近世に大きく発展した儒家神道はしだいに大衆に支持基盤を得て尊王攘夷思想を広め、討幕の国民的原理ともなっていった。

近代には国家神道神道事務局 祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識して、大日本帝国憲法でも信教の自由を認めせざるを得なかった。
もっともそれには、欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。
神社神道では教義を明確に統一できないことに由来する神道の「掴みにくさ」は、同時に言語に強く依存した外来の諸宗教に完全には吸収同化されない、身体感覚を重視した遠い昔からの所作の現われとして現代日本社会にもなお受け継がれている。
この結果、仏教や儒教、キリスト教などの受容後も、神道的なものが日本人の精神生活に幅広く残った。
これらを俯瞰すると、抱擁的側面は出雲が有し、社会制御的側面を伊勢が受け持ったともいえる。

神道における「神」

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほどとうとばれる。
1881年の国家神道神道事務局 祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢神道が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲神道的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

気象、地理地形に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める。
いわゆる「八百万の神」である。
この点はアイヌの宗教にも共通する。
詳細は神 (神道)を参照のこと。
また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)。

一方で、外来の「神」もみずからに取り込んでしまうという習性を持っており、ユーラシア大陸由来の原始宗教の「神」は多くが神道でも「神」として祀られている。
その中には対立しているはずの「神」同士が神道の中では両立していたりする。
また、外来の聖者を「神」とあつかうことも多い。
この習性は近世になり、産業革命による信仰の重要度の低下と、情報伝達手段が発達したことによって薄れていったが、それでも、本来、キリスト教の要素である十字架が一般に「聖なる物」として認知されたり、月(特に新月、イスラーム)、六紡星(ユダヤ教)といった要素を「人知を越えた存在の象徴」としてとらえたりするなどといった文化的な形で残っている。

神道の研究

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった。
これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。
伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

現代の神道

現代の神道は延喜式(特に「神名帳」)にみられる古くから大和朝廷(ヤマト王権)がまつってきた神々を中心に統制され、仏教や地方の神々(元は氏神など)を習合し、全国的な一大ネットワーク及び独特の世界を形成しているようにみえる。
また、江戸時代の儒教神道や復古神道、明治時代の国家神道の影響を強く受けている。

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している。
なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人の一つである。

皇室と神道

現在では、政教分離の性質上、皇室と神道があからさまに結びつくことはあまりないが、歴史的事実として皇室と神道は密接なかかわりを持つ。
多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているのに対し、明治以降の皇室は神道色がかなり強い。
また、神道の信仰の対象として天皇(その祖先神を含む)の存在がある場合が多い。

簡易な参拝

以下は一般的な参拝の流れである。
ただし、神社によっては作法が異なることがある。
多くの場合、その旨の表示がある。

参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。
参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊が必要である。
これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが、現代であれば、一般参拝では入浴・シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。
神社に到着し、鳥居をくぐる際は「一揖(身体を45度折り曲げる会釈)」するのが望ましい。
このときには服装もきちんと整えるようにする。

次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。
これは拍手 (神道)と祝詞を行なう手口(さらには心)を清める意味合いを持つ、一つの禊である。
手水の作法としては、

まず柄杓を右手で持って水をすくい、その水を左手に3回かけて清める。

同様に柄杓を左手に持ち替え、右手を3回洗い清める。

柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。
終わったら再度左手に水をかけて洗う。
口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。

これらが終わった後、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。
柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。

洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチなどでぬぐう。

なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。
手水を使い終わったら拝礼をおこなうために参道を通り神前へと向かうが、その際に参道の中央は避けて歩くことが望ましい。
これは参道の中央が「正中」と呼ばれ、神の通る道とされていることによるもの。
神前ではまず神への供物として賽銭箱に賽銭を奉納する。
次に賽銭箱の近くにある鈴を鳴らすが、これには邪気を払う、音色で神を呼び寄せて儀式を始めるための合図などの意味合いがあるとされる。

鈴鐘を鳴らした後に拝礼をおこなう。
拝礼の基本的な作法は「二拝二拍手一拝」である。
すなわち、以下のとおりである。

拝(直立姿勢から身体を90度折り曲げる礼)を二度おこなう
拍手 (神道)を二度打つ - より具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせて音を出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め、最後に両手を下ろす
再度一拝する(祝詞を奏上する場合は奏上した後におこなう)
二拝二拍手一拝の前後に一揖を行うとより望ましい。
祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に居住地および氏名と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。
また、お礼を述べたい場合も同様である。
かつて、拝礼の作法は各神社によってさまざまだったが、現在の二拝二拍手一拝に統一されたのは明治期の神仏分離によるものである。
ただし、現在でも一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社や宇佐神宮では「四拍手」である。

なお、参拝の際に神酒をいただける場合はいただく。
神に供物した御神酒をいただくことにより、神の御加護があるとされる。

注意事項

身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要がある。
死穢の観念からである。

神棚には原則として火を通したものは上げない。
イザナミが火の神を産んで死んだからである(ただし、祭神や地域にもよる。
穀類は例外であることが多い)。

山の神は血穢を忌まない。

[English Translation]