穢れ (Kegare)
穢れ(けがれ)とは、仏教、神道における観念の一つで、不潔・不浄等、清浄ではない汚れて悪しき状態のことである。
元来は現代語の「怪我」が万葉仮名で書かれるように、単に負傷する事を示した。
「けがる」と「よごる」の違いは下記のとおりである。
「よごる」が一時的・表面的な汚れであり洗浄等の行為で除去できるのに対し、「けがる」は永続的・内面的汚れであり「清め」等の儀式執行により除去されるとされる汚れである。
主観的不潔感。
罪と併せて「罪穢れ」と総称されることが多いが、罪が人為的に発生するものであるのに対し、穢れは自然に発生するものであるとされる。
穢れが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられた。
穢れは普通に生活しているだけでも蓄積されていくが、死・疫病・出産・月経、また犯罪によって身体につくとされ、穢れた状態の人は祭事に携ることや、宮廷においては朝参、狩猟者・炭焼などでは山に入ることなど、共同体への参加が禁じられた。
穢れは禊(みそぎ)や祓(はらえ)によって浄化できる。
「罪」は「恙み(ツツガミ)」から、精神的な負傷や憂いを意味する。
近年の民俗学では、「ケガレ」を「気枯れ」すなわちケとハレがカレた状態とし、祭などのハレの儀式でケを回復する(ケガレをはらう、「気を良める」→清める)という考え方も示されている。
この点については「ハレとケ」の項目も参照。
類似の観念は他の宗教や民間信仰にもある。
これらについては一般の穢れ観念の項を参照。
日本神話における穢れ
黄泉の国から戻ったイザナギは禊をしている。
これは、黄泉の穢れを払う行為であり、その最中に何柱もの神々が誕生した。
三貴子など。
また、祓われた穢れそのものからも神が誕生した。
スサノオがアマテラスの屋敷に天斑駒を乱入させた故事に於いて従女の死である「死の穢れ」が初出である。
神道と仏教
両者とも穢れに対する意識はあるがもっとも異なるのは、死そのものに対する考えで、神道では死や血を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない。
葬式などは、仏教では寺で行うこともあるが、神道では神域たる神社ではなく各家で行う。
これは神聖なものがなんであるかの違いであり、また、清めの塩は穢れを清めているものである。
この穢れは死者ではなく、死という事象が穢れていると感じた精神的な物である。
仏教では、死は次へ転生する輪廻という世界の有り様であり、これを否定するような概念は存在しない。
その現象から自ら抜け出そうとする。
仏教での穢れは、業として蓄積されることを嫌うものであり、こちらは論理的根拠に基づく。
他にも宗教では、すべて穢れなど嫌う物に対しなんらかの論理的根拠を持っている。
他にも日本古来の土着的な穢れ(何を嫌っているか)の概念は、普段の生活に垣間みることができる。
そのひとつに食事の作法があるだろう。
また、このような概念は古代のシャーマニズムとして世界中に土着し存在していたと考えられるが、それは世界的な様々な宗教の流布や民族の流れによってうやむやになってしまっているところも多い。
日本人にとって神は超自然的な物であり、畏れられると共に敬われもした(御霊信仰など)。
神を斎き祀るとは、恐怖としての神を信仰し御霊とすることで鎮めることにある。
天皇は皇祖神である天照大神の血を引いているとされ、神々と同じく尊い方であるとされた。
それら神々を祀る神社は、神を磐座や禁足地より降臨させ祭り事を執り行う臨時のものであったが、次第に禁足地に対して拝殿が、そして神そのものが常駐するという本殿が造営されるようになった。
これらの神と穢れは相成り得ないものであり、神社での手水舎は、外界での穢れを祓うために設置されている。
日本での仏教は神道との習合がいたるところで存在し、両者での考えが入り乱れていることもある(寺院における鳥居、建築様式など)。
穢れも同様である。
穢れ観念の起源
穢れという観念が日本に流入したのは、平安時代だと言われる。
死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。
特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。
賤視から不浄視へ
これ以前の日本にも、邪馬台国の奴婢制や奈良時代の五色の賤など、身分差別は存在したが、それは賤視(下へ見下す見方)であった。
これに対し、穢れ観流入後の被差別民に対する差別は、不浄視(穢れ視する見方)へと変化した。
江戸時代の最も代表的な賤民が穢多(穢れが多いと言う意味)と呼称されたのは、その象徴である。
神道との関連
上記のように、穢れは元々仏教により日本にもたらされた観念であるが、次第に天皇を神聖視する神道の考えと結びつき、被差別民は神聖な天皇の対極に位置する穢れた民と見なされるようになったという説がある。
だが、朝鮮半島においても、牛馬の解体・皮革産業に従事する被差別民「白丁」が存在し、中世ドイツでも焚書を牛馬の解体場で行うなどの例があった。
この種の差別を神道と直結する説には反対意見もある。
また、学者の網野善彦などの研究により、被差別民と天皇との密接な結びつきが明らかとなっている。
天皇を「清め」(不浄なものの浄化)の職能の最高者とみる説もある。
高取正男は仏教の不浄観によって「ケガレ」の観念が変容したと見ている(『神道の成立』)。
一般の穢れ観念
穢れまたは不浄に相当する観念は世界的に見られ、質・程度の差こそあれ多くの文化に存在する。
特に現代のような科学知識のない近代以前や未開の人々からみれば重要な概念である。
穢れたものは、それに物理的または精神的に触れることによって穢れが「伝染」すると見なされている。
また現代人にとっては、手や体を水で洗うことは病原体を洗い流すためと説明できるが、古代人にとってはそのような意味はなく、目に見えるよごれを落とすと同時に、穢れをはらうことでもあると考えられた。
これは現代でも禊、潅頂や洗礼を始め様々な宗教儀式に名残を留めている。
神道の「罪穢れ」のように罪と穢れを同列に扱う考え方も、古代には特殊なものではなかったと考えられている。
穢れているとされる対象としては、死・病気・怪我・女性ならびにこれらに関するものが代表的である。
具体例を挙げると、文化・宗教によって大きく異なるが、排泄物・腐敗物、血・体液・月経・出産、特定または一般の動物・食物、女性・男女間のあらゆる接触ならびに行為(ごくまれに男性、同性間の性関係ならびに行為)・自らの共同体以外の人(他県人・外国人・異民族)やその文化・特定の血筋または身分の人(不可触賎民など)・特定の職業(芸能、金融業、精肉業等)・体の一部(左手を食事に使ってはならない等)などがある。
これらは必ずしも絶対的な穢れのみというわけではなく、行為などによって異なることが多い(例えば、ある動物に触れるのは構わないが食べてはいけない、など)。
穢れの観念は民間信仰はもとより、多数の有力宗教にも見られる。
ユダヤ教では古くから様々な穢れの観念が事細かに規定され、これは食タブーなどに関してイスラム教にも影響を与え、現代でも多くの人々の生活様式に影響を残している。
バラモン教の穢れ観念は現代のヒンドゥー教に受け継がれ、また仏教にも影響を残した。
「穢れ」に対立する概念は「清浄」または「神聖」であるが、穢れと神聖はどちらもタブーとして遠ざけられる対象であり、タブーであることだけが強調されて、必ずしも厳密に区別できないこともある。
例えばユダヤ教では動物の血は食に関する限り「不浄な生き物」と同様に忌まれるものであるが、これはユダヤ教において「血は命であるから食べてはならない」(申命記)と説明される神聖なものであることに起因するものであり、決して穢れたものであるからではない。