佐紀盾列古墳群 (Sakitatenami Tumulus Group)

佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)は、奈良市曾布に所在する古墳時代前期中葉過ぎから後半にかけて営まれたヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である。
佐紀古墳群とも言う。

概要

本古墳群は、佐紀丘陵の南斜面に前期後半から中期、つまり4世紀末から5世紀前半にかけて巨大前方後円墳が営まれた。
200メートル超す巨大古墳が前期後半には3基、中期には4基みられる。
これらは、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高い。

奈良盆地の東南部のヤマト政権誕生に関わりのある纏向遺跡や天理市南部から桜井市にかけて初期ヤマト政権の大王墓を含む大和古墳群・柳本古墳群が5世紀初頭には衰退し、本古墳群が4世紀後半から5世紀前半に巨大前方後円墳を営むようになった。
しかし、中期末の5世紀後半から末葉になると弱小化してしまう。

形においては、撥形前方部がほとんどなくなっている。

名の由来

古墳群の名の盾(楯)列は、周濠の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいる様子を言い表したもののようである。
平城遷都後に定着した新しい言葉と推定される。
『古事記』では、成務陵は「沙紀の多他那美」(さきのたたなみ)にありとしている。

陵墓の混乱

どの天皇の陵かで大混乱があった。
843年(承和10)3月に盾列陵で二度にわたって山鳴りがし、雷鳴のようだった。
そのような奇異があったので、朝廷が図録を調べたところ、二つの盾列陵があって、北が神功陵、南が成務陵だと分かったという。
間違っていた原因は口伝によるものだという。
『続日本後紀』。
この事件によって、神功陵は「狭城盾列池上陵」、成務陵は「狭城盾列池後陵」として区別されるようになった(『延喜式』)。

主な古墳

五社神古墳(現神功陵、276メートル、北方に位置する、前期後半)
宝来山(ほうらいさん)古墳(現垂仁天皇陵、227メートル)
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、現日葉酢媛(ひはすひめ)陵、210メートル、前期後半、後円部の頂には平たく割った石を小口積みにし、高さ約70センチの石垣を矩形に巡らして内側に土を詰めた壇を造っている。
2009年2月に行われた調査によれば、前方部や渡り堤の斜面に葺石が確認されている。
その広さは、東西15.7メートル、南北16.51メートルと想定されている)

佐紀石塚山古墳(現成務陵、220メートル、前期後半)
ウワナベ古墳(東側、中期265メートル)
コナベ古墳(204メートル、中期)
ヒシアゲ古墳(現磐之媛陵、218メートル、中期)
市庭古墳(現平城天皇陵、中期、250メートル、前方部削平されている)
神明野古墳(削平されている)
塩塚古墳
瓢箪山古墳
猫塚古墳(東向き)
マエ塚古墳(削平されている)
佐紀高塚古墳(現称徳陵、東向いている、西側)
大和6号墳

[English Translation]