城 (Castle)

城(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防衛拠点として設けられた構造物。
戦闘拠点であるとともに、食品や武器や資金の集積場所でもある。
主要な城は指揮官の居所であり、政治や情報の拠点であった。
純粋防衛用として山地に建築されることも多いが、街道や川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。
城郭ともいう。

ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と砦のような武士の戦闘拠点とを区別し、ドイツ語では Stadtmauer と Burg、英語では city wall と castle として区別する。
城という文字は中国では前者の城壁都市を意味していたが、日本においては城壁都市が普及しなかったこともあり、主に後者の意味で使用される。

一般的には城には次の機能がある。

防衛機能
不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。

支配の拠点
領地支配の象徴としたり、敵地への支配地拡大の前線基地とする。

君主の住居
通常の領主の生活の場であり、住民達の拠点でもある。

日本

日本では、古代の環濠集落から近世の石垣と天守の城まで多様である。
幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。
曲輪(くるわ) のある陣は“城”といえるだろう。
造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工学)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。
屋敷や櫓 (城郭)・天守も作事に含まれる。

中世の日本では、主に戦闘員である武士がいた。
大名などの居城では、その家族も内部に住み、日常の世話をする女性もいた。
大きな城郭では、周囲の町も取り込んだ総構えを築くこともあった。
日本最大の城は江戸城である。
近世の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。
中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。

“しろ”の語源

現在では“城”という字を訓読みで“しろ”と読むが、歴史を見ると、かつては“しろ”という大和言葉はなかったらしい。
古代から中世初期には、“城”のほかに“柵”という字も用い、“き”と呼んでいた(城柵)(→城 (き))。
たとえば、大宰府のそばにある大野城 (筑前国)は“おおののき”と呼び、山形県の出羽柵は“でわのき”と呼んだらしい。
後に、それぞれの字は、城を“じやう(=現代仮名遣い:じょう)”と読み、柵を“さく”と読むようになった。

“しろ”という読みの語源は、こういうことらしい。
山城国(京都府南部)は、奈良の都(みやこ)からみて奈良山の背後にあたるので、山の後ろという意味で“やましろ”と名付けられ、古くは“山代”、7世紀には“山背”とも書いた。
桓武天皇が平安京に遷都したとき、「此国山河襟帯、自然作城」とあるので、この国が自然の城であるという認識があった。
延暦13年(794年)11月15日に以下の詔が出された。
「斯形勝によりて、新号を制すべし。」
「宜しく山背国を改めて山城国と為すべし。」
「新号を制すべし」とあるから、改字にとどまらず、称号も“やまき”としたのかもしれないが、実際は字だけを「山城」と改めて、なお“やましろ”と訓じたので、「山城」という文字列についてだけ、“城”に“しろ”の訓が生じた。
しかし、山が城をなす土地に“やましろ”の読みが対応していたうえに、山に城を造ってそれぞれの領国を守る時代が訪れたので、中世後期には、“城”は“しろ”と読まれた。
文明_(日本)6年(1474年)の『文明本節用集』には“城”に“シロ”の訓がある。

古代まで

弥生時代の日本には、集落に濠をめぐらせた環濠集落や山などの高いところにつくられた要塞集落である高地性集落が数多く存在したが、政治的統一が進むにつれて衰退した。

城の文献上の初見は、664年に天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。
また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城や出羽柵・秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。

これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。
これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。

中世

中世の日本では、武士の平時の居住地への防護と、戦時に険阻な山に拠る際の防護と、2つの必要から城が発達した。

戦国時代 (日本)初期まで「城」と呼ばれるものは圧倒的に後者の山城が多かった。
領主の居城では、外敵に攻められた際、領主は要塞堅固の山城へこもり防御拠点とした。
この場合の山城は麓の根小屋に対して、詰めの城と呼ばれた。

前者の領主が平時に起居する館は、麓に建てられた。
地域によって「根小屋」「館(やかた/たち/たて)」「屋形(やかた)」などと呼ばれ、周囲に堀を巡らし、門に櫓を配置するなど、実質的に城としての機能を備えていた。
周囲には、家来の屋敷や農町民の町並み(原始的な城下町)ができた。

戦国時代中期から城の数は飛躍的に増大し、平地に臨む丘陵に築いた平山城(ひらやまじろ)や平地そのものに築いた平城(ひらじろ)が主流となり、防御には優れるが政治的支配の拠点としては不向きであった山城は数が減っていく。

また、この時期の特徴としては「村の城」とも呼ばれる施設が全国的に造られたことも挙げることができる。
これは戦乱が日常化したため、地域の住民が戦乱発生時の避難施設として設けたもので、時には領主への抵抗運動や近隣集落との抗争時に立て籠もる軍事施設としても機能した。
これらの施設は山頂に平場を作事するなど純粋な軍事施設の「城」に比べると簡素な造りで狭小であることが多い。

近世

現在の城のイメージの中心となる石垣、天守や櫓 (城郭)などの形式は、室町末期以降、特に松永久秀が多聞山城や信貴山城を築城した前後や織田信長が安土城を築城した前後の時代に発生したと考えられている。
その後豊臣秀吉により大坂城や伏見城などが築かれ、天守に石垣、枡形や馬出しを備えた城門といった一般的イメージでの「城」が完成し、日本の城郭文化は栄華を極めた。
この形式の城郭を歴史学上、織豊系城郭と呼ぶ。
織豊系城郭は全国的に作られたわけではなく、その名称のように織田信長、豊臣秀吉麾下の諸大名が主に建設した。
東北や関東、四国、九州の戦国大名達は各地の実情にあわせた城郭を築いている。
豊臣、徳川政権は各地の大名に天下普請として自己の城郭建設を積極的に請け負わせた。
このことにより、織豊系城郭の手法が広まり、一部取り入れた折衷型城郭に移行したりしている。
また、地方に配置された譜代大名が純粋な織豊系城郭を建設する例も多く見られる。

江戸時代になり、一国一城令が発令されたため、原則一大名家に付き一城を残し多くの城は破却された。
破却された城の多くは、中世的な山城であった。
各大名は近世的な支配秩序を確立するために、積極的に家臣達の城を破却し、己の城下に集住させた。
城は軍事拠点との意味付けより、政治の拠点、領主の権威と権力の象徴、地域のランドマークとしての意味が強くなる。
さらに、家臣たちを集住させ、領国の経済拠点として商工人も集住させ、近世的な城下町が成立する。
現在、城下町と呼ばれているところの多くが慶長年間に成立しているのも、この流れによるものである。
近世城郭の多くも慶長年間に建設された。
しかし、城や天守などが火災などで焼失することが多かったが、多くの藩は次第に財政難に陥ったり、武家諸法度などの幕府による締め付けもあって再建が許された例は数少ない。

ところで、江戸時代に存在した陣屋と呼ばれる施設や、幕末に外国船への対策として日本各地に築かれた台場や砲台も城の一種である。
また、大砲戦に対応した西洋式築城の影響を受けて、五稜郭など稜堡式要塞の影響を受けて築城された城もいくつか存在するが、五稜郭以外は、工期・予算を大幅に短縮又は圧縮されてとても実戦に耐えうるものではないもの、廃藩置県により工事が中止になったものがほとんどである。

近代以降

明治時代に入ると、各地の城郭は、1873年(明治6年)に布告された廃城令による破却や管理放棄に伴う焼失、更には大日本帝国陸軍による資材の接収による崩壊などが進んだ。
城跡には引き続き役所が置かれたり、新たに公園や神社が設置されたことが多かったが、主要都市ではほぼすべての城跡に大日本帝国陸軍が駐屯した。
それら駐屯地となった城跡は、太平洋戦争(大東亜戦争)中にアメリカ合衆国軍の標的とされ、空襲や原子爆弾等により、名古屋城、和歌山城、広島城などの天守や櫓、門など、多くの現存していた江戸時代以前の城郭建築が損失した。
現在は、姫路城や高知城などの12城の天守(現存天守現存12天守)や、大坂城や名古屋城などに一部の櫓や門などが現存する。
また、城郭の門や櫓 (城郭)などは、天守に比べれば、火災や戦災を免れて残存しているものが多く、ほとんどが重要文化財に指定されている。

復興と復元

昭和の戦前より城郭建築の復興事業、特に天守の建設が行われ、洲本城や上野城などに模擬天守、大坂城には復興天守が建てられた。
昭和戦後以降も、昭和29年(1954年)の富山城模擬天守建設以降、「天守閣復興ブーム」や「お城復興ブーム」などと呼ばれる昭和30年代、同40年代を中心に、主に天守の復興が多く行われたが、竹下内閣のふるさと創生事業が実施された1988年以降には文化庁などの方針によって史跡での再建行為が忠実なものであることが求められるようになると、平成2年(1990年)の白河小峰城三重櫓の木造復元以降は、資料に基づいた木造での復元や復興が原則となった。
また、掛川城天守、熊本城の城郭建築群、篠山城大書院など、資料に基づく復元事業が行われ、この時期を「平成の復興ブーム」や「第2次復興ブーム」など呼んでいる。
この時期では、天守に限らず、櫓や城門、御殿、土塁、石垣などの復元、また出土した中世・戦国の城郭を再現した事例がある。
しかし、伝統的な技法での復元工事では、建築基準法や消防法等に抵触するため、門や櫓は人の立ち入りが制限されたり、天守に至っては高さや防災上の規制により建築自体ができないなどのジレンマもあったため、近代的な技法を一部導入したり、仙台城の三重櫓のように再建計画自体が断念される事例もある。

なお、復元された建物内部は、概ね郷土博物館や歴史資料館として一般開放されていることが多い。

(復元天守・復興天守・模擬天守・天守閣風建物の各詳細に関しては天守近・現代の天守建設を参照のこと。)

分類

江戸時代の軍学者による地勢に基づく城の分類には、「平城(ひらじろ)」・「平山城(ひらやまじろ)」・「山城(やまじろ)」・の3つがある。
これらの区別は明確ではない。

構成

築城に際しての基本設計を縄張(なわばり)あるいは径始・経始(けいし)といい、その中心は曲輪の配置にあった。
“縄張”の語源も曲輪の配置を実地で縄を張って検証したことに由来するとされる。
近世に入ると、軍学者たちにより、様々な分類・分析がなされた。
縄張の基本的な形式としては、曲輪を本丸・二の丸・三の丸と同心円状に配置する「輪郭式(りんかくしき)」、山や海川を背後におき(後堅固)本丸がその方向に寄っている「梯郭式(ていかくしき)」、尾根上などに独立した曲輪を連ねる「連郭式(れんかくしき)」などがある。
実際にはそれらの複合形を取ることが多い。

施設

くるわ

堀や土塁・石垣で囲まれた区画を曲輪・郭(くるわ)といい、城はこの曲輪をいくつも連ねることで成り立っていた。
江戸時代には丸(まる)ともいわれた。
防御の中心となる曲輪は本丸(=本曲輪・主郭)であり、他に二の丸・三の丸が設けられることが多かった。
城によっては、櫓曲輪・水手曲輪・天守曲輪・西の丸(大名の隠居所)などが設けられることもあった。
馬出(うまだし)が大規模化したものを馬出曲輪、ある城に隣接している独立性の高い曲輪は出曲輪・出郭(でぐるわ)、出丸(でまる)という。
大坂の役の真田丸や熊本城の西出丸といったものがある。

一般に山城では各曲輪の面積が狭く設置可能な施設は限られていたが、平城では各曲輪の面積が広く御殿など大規模な施設の設置が可能であった。

外郭

城が中世の臨時的な軍事基地から恒久的な統治拠点になると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられることがあった。
これを「外郭(がいかく)」または「外曲輪(そとくるわ)」「惣構(そうがまえ)」などという。
普通、城という場合、内郭だけを指し、外郭は天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。

切岸・堀・土塁・石垣

城を構成する基本的な防御施設として、初期の山城では切岸(きりぎし)が用いられたが、やがて堀(ほり)・土塁(どるい)が多用され、石垣(いしがき)が多くなった。
堀は水堀の他、空堀、畝状竪堀などの形態があり、土塁は土居(どい)ともいい、堀を掘った土を盛って外壁とするものである。
土塁の上部に柵や塀を設けることもあり、斜面には逆茂木(さかもぎ)を置いて敵の侵入を阻むなど、防備は厳重を極めた。
石垣は中世においても城郭の要に一部用いられることはあったが、安土桃山時代になると、重い櫓を郭の際に建てる必要から、土塁の表面に石材を積んで強化した石垣が発達した。
安土城以降は、土木技術の発達と相まって、大規模な石垣建造物が西日本に数多く建設された。

虎口

城の出入口を、虎口(こぐち)という。
大抵は曲げられて造られることが多く、城門や虎口の正面に蔀(しとみ)や芎(かざし)と呼ばれる土塁を設けてまっすぐ進めなくすることもある。
城の正面(近世城郭では通常は南)の虎口には大手門・追手門(おおてもん)、裏の虎口には搦手門(からめてもん)が構えられた。
虎口は城兵の出入り口であるとともに、敵の侵入口にもなるため特に厳重に防備が固められた。
虎口に塁壁で四角形の空間を形成して門を2重に構えたものを桝形虎口(ますがたこぐち)という。
虎口の外側にある堀の対岸に、橋頭堡(きょうとうほ)としてさらに堀で囲まれた小さな曲輪を造ることがあり、これを馬出(うまだし)といった。

敵と対面する虎口の堀には土橋や木橋が架けられ、必要に応じて城内と城外、城内と郭外を遮断すべく木橋の板をはずす、もしくは、破壊、特殊な場合はあらかじめ可動式にして移動した。
移動方法には算盤橋(そろばんばし)や車橋(くるまばし)などの引橋(ひくはし)のほか、郭内に引き入れる引橋、虎口の門柱によって橋を釣り上げる桔橋・跳橋(はねばし)などがあった。

塀は曲輪内を仕切るほか、防御の目的で石垣・土塁の上にも築かれた。
中世には土塀・板塀・塗込塀などが、近世には防火のため、漆喰塀・海鼠塀が用いられた。
塀や櫓には矢・弾丸などを射出するための小窓が設けられ、これを狭間(さま・はざま)といった。
その窓の形により丸狭間・菱形狭間・将棋駒形狭間・鎬狭間・箱狭間などと呼ばれ、塀の下の石垣の最上部に切込みを入れるようにあけられた石狭間もあった。
その用途によって矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間などと呼ばれた。

櫓・矢倉(やぐら)は、物見台や倉庫、防衛を兼ねた建物をいう。
櫓は通常、番号、方位を冠して巽(たつみ)・艮(うしとら)・乾(いぬい)櫓などといい、また用途などによって着見・月見・太鼓櫓などと呼ばれるものもあった。
郭の角にある隅櫓は、近世城郭では通常二重櫓、大きな城などでは小規模な三重櫓が用いられることもあったが、中には大坂城本丸にあった三重櫓や熊本城にある五階櫓のように天守に匹敵する構造を持つ櫓があげられていた例がある。

天守

城郭の最終防衛拠点と位置付けられ、城の象徴でもある天守は、大型の望楼櫓が発展したともいわれる。

名称の由来は、仏教の多聞天、梵天、帝釈天(=天主)を祀ったところから命名されたものという説、城主の館を「殿主」「殿守」といったところから来たという説などがある。
しかも、天守の文献上の初見は、摂津伊丹城とするものや松永久秀の大和多聞山城とするもの、また、織田信長の安土城の天主とするものなどの説があり、起源については未だに十分解明されていない。
多様な形式・形状の天守が築かれたが、築城のピークは関が原の合戦前後で、特に西日本には姫路城天守のように高さ20メートル前後から30メートル前後のものが築かれたのも特徴である。

沖縄県と奄美諸島

沖縄県や奄美諸島の旧琉球王国領域では、城(しろ)にあたるものとしてグスクが挙げられる。
起源については聖域説や集落説など様々な説がある。
内部には御嶽 (沖縄)とよばれる聖域があるものも多い。
知念森城(ちねんもりぐすく)は沖縄の歌集『おもろさうし』に神が初めに現れた城として登場する。
建物や遺跡の復元整備が進められている首里城(しゅりぐすく、しゅりじょう)は、琉球諸島の城郭の内、現存するものでは最大規模の遺構であり、中城(なかぐすく)や今帰仁城(なきじんぐすく)とともに世界文化遺産に登録されている。

北海道

北海道では城(しろ)にあたるものとして砦(チャシ)が挙げられる。
これはアイヌが築いたもので、北海道の各地に存在する。
基本的に城砦として使用され、アイヌ間の抗争や対和人、対ウィルタにも利用された。
儀式等に用いられることもあり、機能は一概には言えない。

ヨーロッパの城

城塞の技術は、15世紀 - 16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化した。
有史以来の防護設備、砦、城、要塞の基本は壁と塔であった。
壁により敵の侵入を防ぎながら、塔から高さを生かした攻撃を行うもので、重力を利用すれば、弓矢の威力は増し、単なる石や丸太も武器と化すことができた。
攻撃側は、壁を壊すための攻城戦を工夫したが、いずれも大がかりで時間のかかるもので、守備側の優位は堅かった。

しかし、大砲、銃が使われ出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊されるようになった。
このため要塞と城の機能は分離されるようになり、要塞は高さより、厚さを重視するものになり、永久要塞としては星型(稜堡式)要塞が、野戦要塞としては塹壕が主流となった。
一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られるようになる。

古代
中近東を含めた地域では文明が興り都市が形成されるとその周囲に城壁を巡らしていたが、これは街の防護と戦時の拠点とするためだった。
こうした様相は当時文明の中心であった地中海周辺ばかりでなく、例えばガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には険阻な地形に築かれたガリア人の都市を攻略する様子が度々登場するように広く見られるものである。
また一時的なものであるが、ローマ軍などは進軍した先で十分な防御能力を備えた陣地を構築しており、これも城の一種と見ることもできる。

城壁の素材は地域や時代・建築技術の程度によって様々で、日干しレンガや焼きレンガ・石・木・土など様々である。
なお『ガリア戦記』に記されているガリアの城壁は木を主体としたものであり、北西ヨーロッパに本格的に石造建築が導入されるのはローマ化以降のことである。

中世

フランク王国が分裂して中央の支配力が緩みだし、ノルマン人やマジャール人の侵入が激しくなると、各地の領主は半ば自立して領地や居舘の防備を強化しはじめた。
当初は居館の周りに屏を作り、濠を掘る程度だったが、10世紀の終わり頃から城と呼べる建築物を作るようになった。

多くは木造の簡易なもので、代表的な形態がモット・アンド・ベーリー型である(図a 参照)。
平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして、濠(空濠が多かった)を形成し、その土で小山と岡を盛り上げた。
小山は粘土で固めてその頂上に木造または石造の塔(天守)を作り、岡を木造の外壁で囲んで、貯蔵所、住居などの城の施設を作るものである。
これは非常に簡単に建築でき、十分な人数が有れば8日間で建築した例もある。
フランス西部で多く使われていたが、ノルマン・コンクエストによりイングランド全土に建設された。

また、ほとんどの街も城壁を有する城壁都市となった。
(古来からの街はローマ時代の城壁を再建して使用している)。
(図b カルカソンヌ参照)

11世紀には、天守や外壁が石造りの城が建築されるようになるが、石造りの城は建造に長期間(数年)かかり費用も高額になるため、王や大貴族による建設が中心であり、地方では木造の城も多く残っていた。
石壁には四角い塔が取り付けられ、壁を守る形になった。
(図c ロンドン塔・図d オックスフォード城参照)

12世紀の十字軍の時代には、中東におけるビザンティン、アラブの技術を取り入れ、築城技術に革新的変化がみられた。
コンセントリック(集中)型と呼ばれる城は、外壁の内側にさらに内壁を加え、天守から同心円状に2重以上の壁をはりめぐらせ、内側に行く程、壁を高くして、外壁を破られても内側の防御が有利になるよう工夫されている。
また、壁は厚くなり、塔はより衝撃に強い円筒型になった。
代表的なものにクラク・デ・シュバリエ城、ガイヤール城がある。
(図e クラク・デ・シュバリエ参照)

コンセントリック型をさらに発展させたのが、13世紀のエドワード式でイングランドのエドワード1世 (イングランド王)がウェールズ支配のために多く築かせた。
城門の守備塔(ゲートハウス)が従来の天守の機能を有するようになった。
(図f ハーレック城参照)

近世

しかし、15世紀にはいり大砲、銃が活躍し出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲の使用により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊され、また高い建造物は大砲の標的となった。
このため城壁は高さよりも厚さを重視するようになり、内部の建造物も低く作られるようになったため、政庁や住居を兼ねるためのスペースが無くなってしまった。
結果として軍事施設である要塞と、貴族の住居および政庁である城の機能は分離されるようになり、背の低い星型(稜堡式)要塞が作られるようになった。
(図g オラデア参照)
一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られた。
現在のヨーロッパの城のイメージは、近世に建築された城によるものである。
(図h ユッセ城、図i ノイシュヴァンシュタイン城参照)

中国

中国における城とは、本来城壁のことを意味し、都市や村など居住地全周を囲む防御施設を指すことが多い。
そのため中国語では都市のことを城市といい、欧州や日本に見られるような城は城堡という。
ちなみに城壁のことは城牆(じょうしょう)という。

大規模なものは、宮殿など支配者の住む場所を囲む内城と、都市全域を囲む外城に分かれており、内城は城、外城は郭と呼ばれ、併せて城郭といわれる。
辺境では北方騎馬民族の侵入への備えとして万里の長城を発達させた。
また、城とは呼ばれないが長大堅固な城壁を持つ要塞として、交通の要所におく「関(かん)」が重要である。

構造

城壁は当初、版築による土壁であり、唐長安城の城壁も全長27kmに及ぶ長大な土牆(どしょう)であった。
時代が下るとさらに城壁の強度が求められ、現在中国各地に遺構として残る明以後の城壁はその多くが堅牢なレンガ造りである。
城壁の上部は城兵が往来可能な通路となっており、城壁に取り付いた敵軍を射撃するために「堞」(女牆)と呼ばれるスリットの入った土塀が備えられていた。
城壁は一定間隔ごとに「馬面」という突出部を持ち、これが堡塁の役目を果たして敵を側面から攻撃するのを助けた。

城壁には市街に出入りするための城門が設けられていた。
石造りの土台をくり抜き、トンネル状として(これを「闕(けつ)」という)その上部に木造重層の楼閣が建てられ、その上には門の名称を記した「扁額」が掲げられた。
城門はその多くが二重構造となっており、城門の手前に敵を食い止める目的で半円形の小郭が設けられていた。
これは「甕城(おうじょう)」と呼ばれ、洋の東西を問わず普遍的に見られる防御構造であり、日本城郭では「虎口」がこれに相当する。
外敵が城内に攻め入るためにはまず、この甕城で足止めされることになるため、城兵は城壁や箭楼(甕城に設けられた櫓)から銃撃をしかけることができた。

中華人民共和国時代に入って、市域拡張のため、また近代化の妨げになるという批判もあり、ほとんどの都市では城壁は取り壊されたが、西安や平遥のように保存されている都市も多い。

朝鮮半島

朝鮮半島の城は、朝鮮固有の形式である山城の他に中国の影響を強く受けた都市城壁を持つ邑城(ウプソン)の2形式があるが時代が下るとともに邑城へと移行した。
しかし山がちな地勢上、完全な邑城は少なく山城との折衷形式のものが多く見られる。
文禄・慶長の役で日本軍の攻囲に耐えた延安城、また一旦は日本軍の攻撃を退けた晋州城攻防戦はその折衷形式のものである。
現在の大韓民国水原市にある水原城は、李氏朝鮮の独自性を狙った造りだともいわれる。

また文禄・慶長の役で南岸域を中心に日本軍が造った城も多く存在し、それらは倭城と呼ばれているが、近年の韓国の経済発展に伴う各種造成工事でその少なからぬものが根強い反日感情もあって重要な史跡とみなされることなく毀損されているという現状がある。

中近東

ルメリ・ヒサール - オスマン帝国の城塞。

城の日

財団法人日本城郭協会が、昭和49年度(1974年度)の事業として4月6日を「4月6日記念日・年中行事」と定めた。
平成4年(1992年)に全国的な普及キャンペーンを行い、現在では各地の城でも天守の無料開放などの行事を行うことが多くなっている。
この日は、多くの城でサクラが咲く頃でもある。

姫路市は4月6日を「しろの日」と定めている。
1990年から姫路城を中心としたイベント(姫路城イベント)を行い、通常は公開されていない櫓の内部の公開などをしている。

[English Translation]