寝殿造 (Shinden-zukuri)
寝殿造(しんでんづくり)は、平安時代の貴族住宅の様式である。
寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたりどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿を設けた。
概要
寝殿は檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で木造の高床式家屋である。
開放的な造りで、室外とは蔀戸(しとみど)などで仕切る。
前方には池・築山などをもつ庭園が造られた。
作庭記などによるこれまでの研究成果によって典型的な形態は一般的に三位以上の上流貴族の邸宅にみられ、敷地は平安京の条坊保町の制により方一町を標準に、敷地の周りに築地がめぐらされ、通常は南以外に門がある。
正門は東西どちらかで、そのありかたにより「礼門」「晴門」と呼ばれる。
門の性格は建物や庭園地割とも密接な関連がありそれぞれの建物は渡殿という廊によって連結され、庭園(坪庭と呼ばれる)を四周囲む。
東西の対屋からは南へ廊が伸び、その途中に中門が設けられ、これらの廊で区画された寝殿前面の広場は南庭と呼ばれ、ここには白砂が敷かれる。
この庭と池とが庭園の中心部分となる。
寝殿は南面し、南庭が設けられたが、南門のなかった点は中国の形式と異質のものである。
年中行事の儀式の場とされた。
寝殿造りの室内は1室住居で間仕切はなく、移動家具である几帳・屏風・衝立などを使っての軽い仕切のみで建物の外周に壁はなく、蔀戸を跳ね上げればまったく開放されて室内外は一体となり、庭全体はパノラマのように見渡すことができた。
寝殿造からの庭の眺めは生得の山水や国々の名所を縮景したもので構成される。
池には大きさによっていくつかの中島が設けられ、北岸にちかい中央前面からみて斜に朱塗りのこう覧をもつ反り橋、次の中島や対岸にむけて平橋がかけられる。
中門の廊の先端に池に乗り出してくつくられる庭園建築である釣殿が設けられ、舟遊の際の乗降場にあてられたり、納涼や月見、雪見の場所とされる。
中島の裏側には楽屋が造られ、舟遊びに興をそえることもあった。
池への給水は京都の地形から敷地の北東部からの流れが導かれることが多く、水路は寝殿と東対屋の間をとおし南に流れて池に注ぐ。
これは当時の陰陽五行思想によって順流とされるもので、遣水とよばれ、浅いせせらぎとなるよう工夫が凝らされる。
これを建物近くに流して滝・遣水とし、寝殿と対屋の間などのつぼ庭には嵯峨野や紫野などの野の趣を移し、野筋といわれるゆるやかな起伏を作り、野草を植えて虫を放ち前栽とする。
遣水の流路とその護岸としての石立は、流れに変化をつけるもので、水が石につきあたって白く波だつ面白さや水音にもこまかく気が配られた。
敷地内に豊富な湧泉があればそれが水源とされることもあったが、これらが暑い夏に涼感を醸し出す重要な要素でもあった。
こんこんと湧き出る泉はたとえば藤原代々の氏の長者屋敷として知られる東三条殿は寝殿造りの代表的なもので「千貫泉」と呼ばれる泉があり、周囲に立石が施され、泉の南北の廊は板敷となって泉廊と呼ばれていたことがわかっている。
平安時代当時の遺構は残っていないが、絵巻物や大臣貴族やその家臣の日記に記された記録などから、当時の様子がうかがい知られる。
年中行事絵巻や「源氏物語絵巻」などに描かれるものが典型的な形で、貴族の優美な生活にふさわしいものとなっていった。
庭園は自然の美しさを存分にとりいれて造られたが、純然たる鑑賞の庭ではなく、儀式のための空間でもあった。
これは主要人の邸宅では当時様々な重要行事が執り行われていることが上記絵巻や日記などで記録されている。
まず客人は南庭に立ちあるいは整列してあいさつをかわし、主人の勧めか主人が庭に降りて誘うことによって南から寝殿に昇る。
この庭には舞台が構えられ舞樂が演じられる。
これらは当時はまつりごと、すなわち政治の一部であった。
なお儀式の内容により庭園に設けられる施設は異なってくるため、演出はさまざまになるとされる。
近年の発掘調査で庭園における池の配置には寝殿の側面や後方に配置される事例があることが指摘されている。
高陽院には寝殿の四方向すべてに池があったが池がなく遣水だけのものや三条院のようにわざとそれらを造らず、昔からある木立を生かし気高く趣のある庭にしていたというのも知られている。
池の配置は自然地形に大きく左右され、池をもたない事例も指摘されている。
池がつくられないような狭い敷地の場合でも遣水だけはつくられたものもある。
現在の京都御所は、江戸時代の建物であるが、有職故実に従い、平安時代の古式を用いて建てられている。
また、京都の大覚寺(嵯峨御所)、仁和寺(御室御所)は室町時代の御所の建物を移築したもので、寝殿造風の面影が感じられる。
記録から上記の東三条殿、高陽院や堀河院などが知られその壮麗な殿舎や趣向を凝らした庭園の様子は藤原実資の日記「小右記」などにも描写されている。
なお、鎌倉時代の武家住宅の様式を「武家造」と呼ぶことがあるが、寝殿造を簡略化したもので独自の様式ではないとするのが建築史の通説である。