登り石垣 (Nobori-ishigaki)

登り石垣(のぼりいしがき)は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際、朝鮮半島の倭城の防備を固めるために採られた石垣普請の手法である。

概要
文禄・慶長の役において、大名たちの侵攻の拠点として朝鮮半島に倭城が築かれたが、その多くは日本からの補給口となる船着場を確保するため、海岸や河川に近いところであった。
天守は、見晴らしの良い小高い丘や山にあったが、兵の居住建物等は補給口に近い平地にあったため、その間の防備のため、丘や山に石垣を登らせるように本丸まで取り囲む日本式の石垣を築造した。
これを登り石垣という。

山腹からの敵の進入を防ぐという考え方は中国の万里の長城に通じるものであるものの、目的は極めて軍事的で、戦闘員保護のための局地的なものだった。
また、築城の形体はほとんど平山城であるが、曲輪の形態としては連郭式、梯郭式、輪廓式などがあった。

なお、倭城は日本の撤兵後、ほとんど破壊されたが、近年、中国・朝鮮半島・日本の築城交流史をうかがえる貴重な遺構として、大韓民国でも調査・研究が進んでいる。

日本の状況

安骨浦城にいた加藤嘉明や脇坂安治など朝鮮半島から帰国した大名が、国内での築城や改修の際、その手法を用いたとされるが、一国一城令や明治維新前後に破却された城郭が多く、登り石垣の歴史的過程については、築かれた箇所などを含め、まだ充分に解明されていない。

松山城 (伊予国)
1602年から加藤嘉明が築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を築いたが、明治維新前後に北側の部分は何らかの理由で取り壊されており、南側のみ完全な状態で保存されている。

彦根城
1603年から幕府普請により築城が開始された際、登り石垣が築かれており、現在まで良好な形で保存されている。

洲本城
脇坂安治が石垣の大改修した際、登り石垣を設けているが、一国一城令で破却されたこともあり、遺構としての石垣の保存状態はあまり良くはない。

[English Translation]