箸墓古墳 (Hashihaka-kofun Tumulus)
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は、奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳である。
出現期古墳の中でも最古級と考えられている。
3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。
概要
この古墳を、魏志倭人伝が伝える倭国の女王「卑弥呼」の墓とする(=邪馬台国畿内説)向きもある。
従来、構築年代が3世紀末から4世紀初頭であり、卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきた。
しかし、最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による年代推定を反映して、古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となっている。
上記の箸墓古墳の築造年代は、研究者により多少の前後はある。
だが、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっている。
そして、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が高くなっている。
現在は、宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されている。
そして、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。
大市は古墳のある地名。
『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。
名の由来
『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が載せられている。
一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。
なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀?)と説話の作成された時期とに大きなズレがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になった?という土橋寛の説もある。
墳形・規模
最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。
測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。
前方部の先が撥形に開いている他の古墳は、兵庫県揖保川町の養久山(やくやま)1号墳、同県の権現山51号墳、京都府山城町の椿井大塚山古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳などがある。
ちなみに、浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の二分の一の相似形といわれている。
長さも幅も二分の一である。
しかし、前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがある。
現状での規模は、墳長およそ278m。
後円部は、径約150m、高さ約30m。
前方部は、前面幅約130mで高さ約16mを測る。
その体積は約37万立方メートル。
周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかったものと思われる。
後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44~46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)がのったものと指摘する研究者(近藤義郎等)もある。
前方部は、側面の段築は明瞭ではない。
しかし、前面には四段の段築があるとされる。
ちなみに、5段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみ。
4段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳 (大和高田市)(馬見古墳群)等が考えらる。
そして、他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。
被葬者の格付けを表しているのかも知れない。
奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していたことが確認されている。
巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持つことが分かった。
外表施設・遺物
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。
この時期には埴輪列はまだ存在していない。
しかし、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪、などが採集されている。
これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。
また、岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されている。
器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。
特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。
埋葬施設は不明である。
しかし、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。
この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。
従って、崇神天皇に記す大坂山(二上山)の石ではない。
周濠は、前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10m前後の周濠と幅数十m前後の外堤の一部が見つかっている。
後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手が見つかっている。
築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていた。
しかし、陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅10mの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土した。
そして、古墳時代前期初頭(3世紀半ば)の築造であることが確定した。
また、下記のことなど分かってきた。
箸墓古墳よりも古いと考えられている纏向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること。
渡り土手を備えていること。
周濠が墳丘の規模に比べ狭いこと。
それらのことから箸墓古墳は、弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生時代の墳丘墓に続くものであると考えられている。
意義
下記の点など、それまでの墳墓とは明らかに一線を画している。
墳丘の全長約280m、後円部の高さ約30mで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点。
出土遺物に埴輪の祖形である吉備国系の土器が認められる点。
また、規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられる。
そして、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。
被葬者
宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されている。
だが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。
その根拠としては、下記の点などが挙げられている。
この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること。
後円部にある段構造が前方部で消失することから、前方部が後世に付け加えられた可能性があること。
大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。
しかし、現時点では正確なことは分からない。
ちなみに魏・晋時代の一里は300歩で、魏・晋時代の1里は76mとされている。
よって、1歩はほぼ25cmとなり、100余歩は約30m弱となる。
その他
なお、桜井市教育委員会が2000年に実施した周辺部の発掘調査によって、周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。
同時に出土した布留1式土器により4世紀のものとされる。
これにより日本列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。
ただし周濠内からの出土であることから、古墳本体の築造年代とは関わりのない後世の二次的な出土物である可能性もある。
尚、織田氏の統治下では、墳丘上にお茶室が設けられていたと言う。
また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのは、そのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われる。
主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていた、という。
また、周濠に掛かる外堤も少し東から検出されている。
測量図を見て前方部と後円部の境目に斜めについた溝は、進入禁止になる前に村人が使用した道の跡である。