野口王墓 (Noguchino Ono-haka Tumulus)
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の八角墳である。
天皇陵であり、天武天皇・持統天皇合葬陵に比定・治定(陵墓と決定されること)されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。
日本書紀には「大内陵」と記述される。
概要
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。
2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている。
本古墳は、天皇が埋葬された古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。
治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
同様の事例には、天智天皇陵(御廟野古墳)を上げることが出来る。
しかし1235年(文暦2)に盗掘にあい大部分の副葬品が奪われた。
その際天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。
持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
文献上にあらわれる野口王墓
野口王墓に関しては、その作成から現代に至るまで、多くの史料が残されている。
特に、天武持統合葬陵であると治定されるまでには、紆余曲折があり、関連史料も多い。
以下は野口王墓が天武持統天皇陵であることを前提とし、文献によって確認できる野口王墓の様子を記す。
古代
『日本書紀』には、天武天皇の死後、687年(持統元)10月壬子条に「始めて大内陵を築く」との記事がある。
688年(持統2)11月には誅が終わり、天武天皇が埋葬されている。
702年(大宝2)に崩御した持統が703年(大宝3)12月癸酉に、飛鳥岡にて火葬され、同月壬午に、「大内山陵に合葬」された。
延喜式諸陵寮には次のようにある。
「檜隈大内陵(飛鳥浄御原宮にあめのしたしろしめしし天武天皇。」
「大和国高市郡に在り。」
「兆域東西五町、南北四町、陵戸五姻)・同大内陵(藤原宮にあめのしたしろしめしし持統天皇。」
「檜隈大内陵に合葬す。」
「陵戸更に重ねて充てず」
(引用資料の括弧内は割書。)
中世~近世初頭
藤原定家の日記『明月記』の1235年(文暦2)4月2日・6月6日条に、同年3月20日と21日の両夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けていることが記録されている。
また、その際、石室の記録として、『阿不幾乃山陵記』(あおきのさんりょうき)が作られた。
『阿不幾乃山陵記』には、石室は馬脳(瑪瑙)、棺は乾漆であったと書かれている。
室町時代から江戸初期にかけては、陵としての管理が廃れていたようである。
1791年(寛政3)刊の『大和名所図絵』では、旅人達が墳丘の上に登ることはもちろんのこと、石室の内部にも自由に入って見学している様子が書かれている。
近世
近世に入ると、野口王墓説と見瀬丸山古墳のどちらが天武・持統合葬陵であるかが不分明となり、問題となった。
1699年(元禄12)までに行われた元禄の修陵では、野口王墓が天武持統合葬陵として扱われている(『御陵所考』)。
しかし、1734年(享保19)に完成した『大和志』では、天武持統陵は見瀬丸山とされ、野口王墓は天武・持統陵としての言及がなくなっている。
両者のいずれかが、天武持統合葬陵であるかは、以降明治時代まで混乱が続く。
幕末・維新期
幕末に至り、1848年(嘉永元)に著された北浦定政の『打墨縄』(うちすみなわ)では、天武持統陵は見瀬丸山とされ、野口王墓は文武天皇陵に比定された。
1854年(嘉永7)刊で平塚瓢斎の『聖蹟図志』でも、見瀬丸山が天武持統陵とされたが、元禄期には野口王墓が天武持統陵であるという説があったこと、また野口王墓に倭彦命を比定する説があることが付け加えられている。
その後、1862年(文久2)からはじまる、文久の修陵においては、野口王墓は文武天皇陵として仮修補された。
このときには、あくまでも「仮」の修補であったらしい。
そのひとつの理由として、野口王墓が文武陵であるという治定に、なお異説があったことが考えられている。
谷森善臣の『山陵考』においては、以下のことが主張されている。
「持統天皇は火葬に付され、かつその骨壷は盗掘されている。
天武持統合葬陵にあたる古墳には、石棺がひとつでなければならない。
石棺が二つある見瀬丸山は、合葬陵としては不自然である」。
このような異説が、なお野口王墓を文武天皇陵としては「仮修補」の扱いにしたこと可能性がある。
しかし、理由は不明であるが、この谷森の説は採用されず、ある時期まで引き続き仮のまま野口王墓は文武陵とされていたようである。
近代
文久の修陵以降~明治4年の間のいずれかの時期に、再度、見瀬丸山から野口王墓に治定変更されている。
その後、明治4年にさらに治定変更が行われ、野口王墓は、天武持統陵ではなくなった。
しかし、さらにその後、野口王墓は天武持統陵として再治定される。
1880年(明治13年)に『阿不幾乃山陵記』が、京都栂尾の高山寺から発見された。
それをうけて、同年12月、宮内省官吏である大沢清臣(おおさわすがおみ)と大橋長憙(おおはしながおき)が、「天武天皇持統天皇檜隈大内陵所在考」(『公文録』国立公文書館所蔵)を著したのである。
この「天武天皇持統天皇檜隈大内陵所在考」では、前述の谷森の説をひき、見瀬丸山が天武持統陵ではありえないことを述べた。
また、『阿不幾乃山陵記』にある「阿不幾乃山陵里号野口」と『諸陵雑事註文』(1200年(正治2))において「大和青木御陵天武天皇御陵」の記載の一致から、野口こそが「青木」であり、天武天皇御陵であると主張したのである。
この「天武天皇持統天皇檜隈大内陵所在考」は、宮内卿徳大寺実則に具申され、太政大臣三条実美に改定の伺いが出される。
この伺いは、1881年(明治14)1月に太政官内務部で可とされ、裁下を仰ぎ2月1日に可とされた。
これにより、野口王墓は天武・持統合葬陵として正式に治定され、現代に至るまでその治定は変更されていない。
なお、治定からはずされた見瀬丸山はその後、御陵墓伝説地から陵墓参考地へと変遷し、現代にいたる。
薄葬令と古墳
646年(大化2)に薄葬令が出されたが、古墳造営のすべての否定ではなかった。
一部の支配者層だけは、古墳の造営を続け、下級官人及び庶民は古墳造営が禁止されたのが実情である。
言い換えると、一部厚葬、大多数薄葬であった。
本古墳をはじめ、中尾山古墳、高松塚古墳などは薄葬令以降の古墳である。