今西家住宅 (Imanishi-ke Jutaku (Imanishi family's House))

今西家住宅(いまにしけじゅうたく)は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて奈良県の中部に位置する橿原市の今井町にある。

慶安3年(1650年)に建てられた城郭のような構造で複雑な屋根の葺き方から別名「八つ棟」(やつむね)または「八つ棟造り」と呼ばれている建物である。

東京大学による町屋 (商家)調査を経て、1957年6月18日に棟札とともに国の重要文化財に指定された。
文化財保護法により根本修理に着手することとなり、奈良県教育委員会が今西家から委託を受けて昭和36年3月に起工し、同37年10月に竣工した。

概要

今西家住宅は、棟札と呼ばれる上棟時の年号や施主名や大工棟梁を初めとする施工関係者の名を墨書きした細長い板や、屋根の棟の端部を飾る鬼瓦に刻まれた鬼瓦銘と呼ぶ刻銘によって慶安3年の建立年代が明らかである。
本建物の屋根形状は別名「八つ棟造り」ともいわれ、建物の妻面には複数の屋根の稜線が見える。
妻面から見て、屋根の稜線が数多く見える状態を重ね妻の棟数の多い建物という。
漆喰による柱を隠した大壁を用いた雄大な外観は、一般庶民が住まう民家というよりは城郭建築を思い起こさせる建造物である。

背景

現在の今井町には今西家住宅と同様に外壁を大壁で包んだ古い町並が続いている。
これは寺内町今井の町造りが完成した江戸初期から中期・末期に栄えた今井町の町並の形態が現在まで残されてきたわけである。

この古い町並の外周には環濠跡を現在に残している。
この環濠は巾三間(約 5.45m)を有し、同環濠を掘り上げた際の建設発生土を盛り上げて土塁を築き、東西南北に九つの門を開けていたようである。
このような環濠集落を必要としたことは、中世未明から信奉してきた一向宗への弾圧からの自衛のために町造りの形態がそのまま残されてきたわけである。
現在の今西家住宅は、1650年建立以前に本陣及び住居が築かれていたことから2度目の普請であるが、前記集落の中の西端にあって、あたかも西の天守閣といった堂々たる風格を現していたと伝えられている。

このようにして今井の町造りが始まり、現在の今井町に変わってきたわけであるが、なぜこのような町造りが必要であったか、または今井町のおいたちなどを述べないと、当時の今西家住宅の存在がわからないと思われるので、それらのことから先に述べることにする。

現在の橿原市は、ヤマト王権から飛鳥朝廷にかけ上代の発祥地として由緒ある土地柄であり、今井町はその北西方に東西に長く位置している。
この頃の地勢は地下の軟弱な状態からみて、あるいは泥地のような湿地帯でなかったかと思われる。
ところが今井町より東北 1.5 ㎞ の位置にある八木町は、奈良・京都・難波・伊勢・四日市・吉野・紀州路への交通の拠点で、八木周辺はその意味で古くから町屋化し、自然と商業も盛んになったようである。
その結果、中世の今井町も隣接の八木の商業が入り込み、今井の町を形成してきたようである。
しかし、記録にはそう古いものはなく、今井の地名が見えるのは、至徳三年(1386年)に今井の地名が出てきて、この頃は興福寺寺領であったようである。

今井については、中世末期において一向宗本願寺の進出によって一転機がおとずれ、俄然頭角を現すようになった。
今井郷が都市的に発展したのは、本願寺一向宗の真宗の道場を建設して以来のことで、町並の整った寺内町今井が成立してきたようである。
このとき今井郷の形態は、外敵と郷民の自治を守るために、郷の周辺に濠を巡らし、土塁を設けた環濠集落で、現在もその濠跡が今井の周辺にその遺構を残している。

また今井町の現道すじは、比較的に整然と残っているが、町の端から端までまっすぐ通ったものではなく、入り口部において道幅だけ屈曲しているか、少し入ったところで丁字型に突き当たっていて、外部より町中を見通すことの出来ない仕組みになっている。

現に今西家北側の道路の本町筋では、本建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪い。
これでは現在のように自動車が頻繁に通る都市としては不適当な町並である。

天正初年(1574年)、本願寺が織田信長に挑戦したとき、今井郷民のほとんどは商人であり武家は川井家の一族郎党を中心にした戦力であった。
本山に呼応して今井郷民も蹶起し、環濠を深くしたり、土塁を築き直したりして信長軍に対抗したようである。
ところが年余の抗戦も空しく、明智光秀の謀略で降伏し、武装は解除されたようであったが、町の存在だけは許されたようであった。
そのために北大和の奈良に対して、南大和随一の町として今井は発展してきたようである。

その後、江戸時代となり、世の中がおさまって町人の勢力が高まり、高度な自治を展開するにいたった。
そこで幕府でも今井を町として認め、江戸・大阪・京都・奈良同様に惣会所を設け、町年寄などの町役人を指揮して町政に当たらせるようになった。

今井町の惣年寄制は、慶長に始まったようで、初めは今西・尾崎両家が任命されたが、寛永に上田家が加えられて合計三人となり、今西家が筆頭になっている。
この惣年寄の下に町年寄十一人(当時六つの町があり、各町二人ずつ、北町のみ一人)・町代六人・肝煎六人(いずれも各町一人ずつ)都合二十六人の町役人が、自治的に町の支配に当たった。

この頃の惣年寄の仕事はどのようなことをしていたかというと、今西家の古文書には以下のように書かれている。
「惣年寄義ハ古来より六町之〆括り取捌役ニ而勤来、公事訴訟願等の義は勿論御上より被仰渡候御用町年寄へ申渡。」
「尤下より申上候義、何事ニ不依、公事訴訟之義ハ当人又は町年寄江改相談、相済候義ハ埒明、滞申義者御役迄申上候義ニ而勤来候。」
「依之御給地之時分、御地頭様へ御目見等も御家中並ニ被仰付相勤申候。」
このように今井六町の締括り役であって、領主・代官の町方支配の一翼を担っている。
公事・訴訟の取りさばきが主な任務であるが、商売繁盛の町方のことで「町中家屋敷・同地売買借入証文奥書印形」の責務があった。
今西家の西側面には、もと牢屋が最近まであったこと、またいぶし牢などの現存していることから、悪質犯人を拘留するといった警察権も行使していたようである。
また当時使われていた手錠も今西家に残っている。

今西家は江戸初期から幕末まで前述のように惣年寄役として勤めてきたのであるが、これは現位置すなわち慶安三年に本建物が創立されてからのことである。
この任地に着任するまでに既に今井町の住人であり、前述の一向宗の戦いにおいて、信長から武装解除される際に今井郷民を危険から回避させ、単独で交渉にあたるなど相当の功績があったようである。
その功績が認められ、現位置に今井の天守閣ともいわれる豪壮な建築の行われたのが始まりのようである。

江戸初期の今井の町勢の概略は、東西 610m、南北 310m、大体長方形の地形で東西南北方眼状に道路を配していた。
その地形や街路の形状は、町造りの始められた頃からの形状がほぼ残されている。

以上のようにして町の外郭が出来上がり、その中に街路を配し現在の町並みに近い区画が出来上がるわけであるが、街路は前述のように町の端から端まで通り抜けのものではなく、入口で屈曲、あるいは途中でT字型に組んで見通しのできないように配備されている。

その上、街路の端々の東西南北に9つの門があったようで、夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいたようである。
もし、外来者が今井町内で宿泊する必要のあるときは、その都度、町年寄へ届出を必要としていたようである。

このような形態で今井の町造りが始まり、惣年寄制によって自治権を確立した町並みが出来上がった。
江戸初期から末期にかけての民家が軒を連ね、そのうちでも今西家住宅は、当初から現位置にあって、ひときわその威容を示していたようである。

特質

本建物の特質としては、棟札があって創立年代がはっきりしていて、民家というよりは城郭を思わせる構造形式である。

平面形式は土間と座敷が折半、同境に一本引き雨戸があり、座敷内部では、帳台構え、各間仕切の敷居・鴨居が突き止めであることなどが一階平面の特質である。

二階には床の間付きの座敷のあることが注目される。

二階にこのような座敷を造ることは、階級意識が強かったこの頃では、上から人を見下げるということで、一般民家には用いられなかったようである。

ところが今西家の先祖は武家出身であって、その上、一向宗の騒動には相当功績のあった人で、その功績が買われて現位置に建てられたことが伝えられている。

現在、本建物が建っている位置は、旧環濠集落の西端にあって、西の要といったことから外敵を威嚇、あるいは防禦する意味において、城郭を思わせる建築様式を備えさせたものと思われる。

したがって、本建物は故意に北側の道路上(本町筋)に突出していて、二階座敷北と東の両面に塗籠(ぬりごめ)の連子窓を設け、外敵の見張りあるいは町内の動向をさぐるに格好の場所であったと思われる。

なお元禄以前に二階部屋があったことから、この家の別格であることの証しとなっているのである。

内方高さが現行内方高さに合っており、畳寸法についても旧尺貫法で長さ 6尺3寸、巾 3尺1寸5分の現行京間の畳が使われている。

以上の特質のうち二階座敷を除けば、今井町に現存する古い民家に共通した構造形式を用いているが、その中でも旧形をよく保存されてきたのは今西家住宅のみで、他の建物では随時改変されている。

本建物東南隅すなわち仏間南に二階屋(別間)が接続しているが、この二階屋も後補のものではなく、本建物と同期のものであることがわかった。

この二階屋は改変がはげしかったために、昭和32年本建物指定調査の際は、一応保留という形になっていた。
再度の調査で本建物と同期のものであり、当然追加指定ということも考えられたが、内部改造のはげしかったことと、当主の希望などもあって指定しないことにした。

別間の構造形式は、主屋と大差はないが、各部材の大きさの比例関係である木割りの小さいことと、一階南端柱間には書院のような痕跡のあることから、南八畳間の座敷はあるいは書院形式のものではなかったかと思われる。

仏間南現在押し入れのある個所は、もと東西に長い四畳間であって、この四畳間から二階に上がっていたようである。
二階は現在前記四畳間上部は現昇降口及び押入れ・南に八畳間の座敷を有しているが、もとは厨子形式のものでなかったかと思われる。

この別間と向い合って西に三階蔵があったが、昭和初年の地震で倒壊したようである。

沿革

本建物の沿革については、解体修理の際発見された瓦銘や刻銘から述べることができる。
平瓦の中に明暦2年(1656年)の刻銘のあるものがあり、明暦2年は創立から7年後のことである。
もし、この頃に屋根葺が行われたとすれば、銘のある瓦と同種の瓦が相当数出てこなくてはならないが、それらの資料の得られないところから考えると、何かの災害によって応急的に一部の瓦が補足されたのではなかろうかと思われる。

次に元禄6年(1693年)の瓦銘については、慶安3年に創立されてから43年後で相当数の平瓦が補足されており、また文政8年(1825年)の瓦銘のある瓦と同種類の瓦が半数近くあり、これらのときに屋根の葺き替えの行われていることがわかった。

元禄と文政の修理は屋根だけでなく、外部大壁および軒裏の塗りかえ、内部間仕切の改変など相当大規模な修理が行われてきたようである。

その後、昭和初年までは記録的には何の資料も得られなかったが、内部の壁が3回くらい塗りかえられているところから、文政以降にも破損の都度修理が行われてきたようである。

昭和2年(1927年)の北丹後地震により、本建物西に接続していた牢屋と、南の三階倉が倒壊した。

この頃には本建物も相当破損していたようで、特に西南隅の地盤沈下に伴い、本建物が西に大きく傾いていたようである。

江戸時代であれば、この程度の修理は官費で賄えたであっただろうが、明治維新後は廃藩置県によって、長年勤めてきた惣年寄の役職もなく、一市民としては簡単な修理も覚束ないといった窮状に達していたようである。

当主によると明治維新後、男爵位を政府から薦められたものの手続き費も儘ならないほど窮迫していたようで、ご先祖が権力に驕ることの無かった事に誇りを持っているとおっしゃっていた。

それで牢屋や三階蔵の復旧は行われなかったが、牢屋接続部の屋根の修理と、これ以上本建物が西に倒れないよう土間西側から斜めに支柱を入れて補強した。
別間も本建物と平行して傾斜していたので、本建物と接続する桁・母屋などの横架材を切り離し、別間だけ独立して傾斜を復旧していた。

このとき仏間南旧4畳間の中央東西に筋違い用の壁を新しく設け、同壁の北に仏間側からの押入れ・南間西に二階昇降口、東に別間座敷側の押入れを、それぞれ新設し、二階も現在風に改変されたようである。

このようにして別間の創立年代が明らかになり、昭和初年には立ちを直し、締め直しも行われている。
しかし、軸部の弛緩激しく、東大壁の弛緩が特に目立ち、本建物に並行して修理の必要があったのであるが、予算の都合で壁の応急修理のみにとどめた。

今西家現在の宅地は、北・東とも道路に面して旧状どおり、南面は、県道までになっているが、児童公園南春日神社境内一円も旧宅地であったようである。

また南を東西に走る県道(御堂筋)は明治天皇ご行幸の際に県に寄贈して開通したものである。

県道が付設される以前は、現道路上東端に南側借家が南北に建っており、もとは今西家の附属建物の敷地であったようである。
また第二次大戦以前までここに信長公陣屋跡が建っていたが火事を危惧し撤去したとのことである。

市に寄贈された西側の現児童公園には、今西家の茶室があったようである。

今西家の由緒

今西家の先祖は、十市城主民部太夫遠武の次男十市治良太夫遠正が廣瀬大社の社司樋口太夫正之の婿養子となり八千余石を領して川井城を築き川井民部少輔中原遠正と称したのが始まりである。

十市遠勝が筒井順慶に圧迫されて今井に亡命した後を追って、永禄九年(1566年)に一族である四代目の川井助衛門尉正治が家臣と共に当地に移住した。

五代目の川井長左衞門正冬のとき十市氏と川井氏を恃んできた河瀬新左衛門氏兼を石山本願寺顕如上人光佐の門流に属させた。
河瀬入道兵部房とし、新しく今井郷に道場を営立して住職とした。

一向宗と結んで、時の権力者織田信長と闘うために街の周囲に環濠土塁をうがち、西から今井を守るべく櫓などを備えた城構え(現今西家住宅地)を築き城塞都市化している。

信長に対して天正二年(1574年)十市氏および川井氏家臣が中心となって今井郷民が蹶起したが、天正三年(1575年)冬に信長と和した。

所謂、土民なみになる(武力放棄)という条件で武装が解除された。

その後、自治都市として海の堺と同じく陸の今井として栄えた。

徳川時代になって、高度の自治を展開したので幕府は今井を町として認め、江戸、大阪、京都、奈良と同様に惣年寄、町年寄をおき町制にあたらせた。

今井町に惣年寄制がしかれたのは慶長年間(1600年頃)で初めに川井長左衞門正冬(後改め今西氏)、河瀬入道兵部房(後改め今井氏)、尾崎源兵衛、あと上田忠右衛門、を加えた。

五代目川井長左衞門正冬のとき大坂夏の陣の功により元和七年(1621年)5月郡山城主松平下総守忠明(徳川家康の外孫)より今井の西口にあることから今西姓を名乗るようにすすめられ、その時に薙刀 銘来国俊を拝領している。

2階正面の壁には、向かって右方に川の字の井桁枠で囲み川井氏の定紋を入れ、左には菱形3段に重ねた当家の旗印を付けている。

『棟上げ慶安参年参月廿参日』の棟札銘(重要文化財)により、慶安3年(1650年)の建立であることが知られる。

今井町では最も古い民家で、また主屋南隅に接続する角座敷および二階部屋も同期のものである。

所在地
奈良県橿原市今井町3丁目9番25号

[English Translation]