大極殿 (Daigokuden)
大極殿(だいごくでん)は、古代の朝廷の正殿。
大内裏朝堂院の北端中央にあり、殿内に高御座(たかみくら)が据えられ、即位の礼や国家的儀式が行われた。
中国の道教では天皇大帝の居所をいう。
難波京の大極殿
山根徳太郎により発見された。
現在は、難波宮に土台が復元されている。
平城京の大極殿
恭仁京(くにきょう)遷都までの大極殿を第一次大極殿、奈良に都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿という。
第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真北に位置していたが、第二次大極殿は平城宮東寄りに移動している。
第二次大極殿跡は近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残っており、のちの発掘で第二次大極殿跡と確定された。
大極殿の周囲は築地塀回廊で囲まれ、南に朝堂院とつながる「閤門(こうもん)」があった。
この区域は「大極殿院」と呼ばれる。
正月には大極殿前庭に七本の宝幢(ほうどう)が立てられ諸臣の朝賀が行われた。
平城宮大極殿は第一次と第二次とで大きく構造が異なり、第一次では唐長安大明宮含元殿の影響を受け、大極殿院が広い前庭を持ち、また大極殿は前庭から1段高い位置に建設されており、平安宮の龍尾壇(竜尾壇 りゅうびだん)の原型といえる。
なお、奈良建都1300年に当たる2010年を目指して平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元される予定である。
(→平城遷都1300年記念事業)
平安京の大極殿
平安京大極殿はそれ以前のものが築地回廊で囲まれ、閤門を持っていたのと異なり、南の朝堂と直接つながる構造となっていた(画像Plan of Chodoin参考)。
ただし大極殿は龍尾壇上に建っており、その境界には朱欄(朱色の手すり)が設けられ、朝堂と大極殿とは「龍尾道」と呼ばれる階段で往来した。
龍尾壇は今の平安神宮でも見ることが出来る。
大極殿の後背には「小安殿」(こあどの)と呼ばれる殿舎が軒廊(こんろう)でつながり、天皇出御の際に休憩所として利用された。
また、龍尾壇を昇った左右には「白虎楼」「蒼龍楼」という小楼閣が対置されていた。
平安時代、後白河法皇の命で作られた『年中行事絵巻』には東西11間、南北4間で、朱塗りの柱と瓦葺屋根入母屋造の屋根に金色の鴟尾を戴く大極殿が鮮やかに描かれており、平安神宮大極殿や平城宮跡の大極殿復元事業でも参考とされた。
なお、『年中行事絵巻』や、1895年(明治28年)京都市参事会によって編纂された『平安通志』には、単層の大極殿が描かれているが、大極殿殿舎は火災により2度も建て替えられており、970年(天禄元年)成立の『口遊(くちずさみ)』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当初は出雲大社や奈良の東大寺大仏殿に匹敵する大建築であり、『年中行事絵巻』所載のものは1072年(延久4年)に建て替えられた姿で、本来は重層(2階建て)であったとも推測される。
平安時代中後期から焼亡と再建を繰り返し、朝廷の儀式の中心が内裏の紫宸殿へ移行していくのに従い衰微していった。
1177年(治承1)焼失ののちは再建されることなく廃絶した。
京都市中京区千本通丸太町通の旧跡には、1895年(明治28年)に平安奠都1100年を記念して建てられた石碑を見ることが出来る。
なお、平安神宮は平安宮朝堂院を模して建立されたものであり、拝殿として大極殿が8分の5の規模で模して建設された。